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呉駅の出発。長い停車時間で冷えきったシリンダのドレインを切るため、発車と同時にカマは蒸気に包まれる  呉 C625,925レ 1967年3月24日

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1967- 68年・春 呉線

 

 

夕暮れ、太陽は身を沈めるその前に、力を振り絞るかのように最後の輝きを見せるという

終焉を間近に控えながら蒸気機関車が日本の各地でまだ元気に働いていたころ

かつての幹線の華やかな活躍には及ばないが、人々の暮らしを活き活きと運んでいた時代

今思えば、あれが、輝く落日の中に生きていた蒸気機関車たちの最後の姿だったかもしれない

 

あと10年、いやあと5年早く生まれていれば…と当時は真剣に考えたものだ

東海道、山陽の大型蒸機が牽く特急、急行群を見られたはずだから…

後に、僕よりもはるかに若い人たちも、あと10年、5年と同じように考えていたと聞いた

「今の若いものは…」という言い方はギリシャ時代からあったという。つまりいつの世もそんなものなのだ

きっと「輝く時」はいつも身近にあるはず、ただ気付くのがあとになってしまうだけ、ではないだろうか

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小屋浦駅を発車するC62牽引の通勤列車。朝の時間帯はどの列車も10から12両の長大編成。満員の客を乗せた重い編成を豪快に牽きだしていく   小屋浦 C62,927レ 1967年3月25日

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夕方の安芸阿賀駅。山陽本線の電化で大量に淘汰されたC59の中で、161,162,164の3両が呉線で生き残っていた。全て戦後形でテンダーが船底形、ローラーベアリングを使った台車を履き、バランスのとれたこのカマの姿をいっそう軽快に見せている   
安芸阿賀 C59161,922レ 1967年3月24日

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3本の列車が駐泊する広駅の朝は慌ただしい。急行「音戸」が通過する5時には出発準備が始まり、三丈の煙が立ち上がる。6時過ぎ、京都からの「ななうら」が到着、発車するとそれを追いかけるように次々と広島に向けて発車していく 
広 D511059,921レ C6241,925レ C6215,927レ 1968年3月24日

  幹線が次々に電化され、大型蒸機が淘汰駆逐されてゆくなかC59,C62が揃った呉線は最後の大型蒸機の牙城であった。三原から瀬戸内海沿いに竹原、広、呉、海田市までの87km。広を境に東側は海沿いの風光明媚な区間、そして西側の通勤通学列車が行き交う列車本数の多い区間と二つの顔を持っていた。
  朝、3本の列車が並ぶ広駅、広い構内持った呉駅、半逆光の光線が美しい小屋浦駅。それぞれの駅の出発が狙い目で、歩かなくてすむこと。、必ず煙が期待できることなどお手軽な割に良い写真が撮れる好撮影地であった。15分から20分おきに次々とやって来る5本の列車をアングルを変えながら撮り続ける1時間20分、天気が良ければ至福の朝のひとときだ。
  通勤時間帯も一段落して9時頃広島から来る列車の牽引はC59。その列車に乗って東へ移動、本日第二幕目の始まりだ。安芸川尻から安登、安浦にかけての
16.7‰の勾配区間、それとも安浦ー風早、大乗ー忠海、安芸幸崎ー須波の海岸

沿いの風景を狙いに行くか、その日の天気の具合とこちらの気分で決定する。ただ残念なことに昼間帯はDC列車が多く蒸機牽引は上下合わせて数本しかない。ただし、その中でも水色の帯を締めた一等寝台を連結した寝台専用急行「安芸」はかつての本線の雰囲気を漂わせ眩しい存在だ。段々畑の畔に腰掛けて列車を待っていると連日の夜行移動の疲れで眠り込んでしまうこともあり、そこにはゆったりとした時間が流れていた。
   再び長大編成の蒸機列車が活躍するのは夕方の時間帯。広島から呉、広に向けて次々とやって来る。広々とした安芸阿賀駅、安芸阿賀ー広間の黒瀬川にかかる鉄橋が僕の好きな撮影ポイント、共に半逆光ギラリが狙える場所だ。
  夕陽が落ちた後は停車時間が比較的長い呉駅で三脚を立てて夜間撮影、長かった一日が静かに終わっていった

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夕陽を浴びて黒瀬川橋梁を渡る。 安芸阿賀 C6217,924レ 1967年3月24日

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東京を前夜20時に発ち、広島には12時15分着。寝台専用急行「安芸」は16時間15分の旅だった 風早 C62,26レ 1967年3月25日

 

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列車を待っていると聞こえてくるのは、物売りの声、汽船のエンジン音。車も今ほど多くはなく、穏やかな風景が拡がっていた 安浦 C6214,626レ 1967年3月24日

 

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程よい太さのボイラと絶妙な軸配、2-C-1・パシフィック。C59は本当に美しいカマだと思う 安浦 C59,623レ 1968年3月23日

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以上が「Jトレイン」vol.01(2001年3月刊)に掲載した内容です。vol.01から04までは7頁、05以降は9 or 10頁もらっていました。初期は掲載点数も少なく 、以下何点か追加してみました

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朝の通勤通学列車の出発 小屋浦 C6241,925レ 1967年3月25日

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前掲写真のちょうど一年後、懲りもせず同じような写真を撮りに行った。偶然同じ列車に同じカマだった 小屋浦 C6241,925レ 1968年3月22日

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薄暮。暗くはなく、明る過ぎもせず、街並みもほど良い賑わいだった 呉 C6218,623レ 1967年3月24日

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午後の穏やかな海。列車は「荷44」、前夜20:26に鹿児島を出発して翌々日の14:59、42時間33分かけて終着駅汐留に到着する  安浦 C62,44レ 1967年3月25日

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撮影していた時には多分気付かなかったことだが、今見ると瓦屋根の連なる街並みが美しい 安芸川尻 C59,626レ 1968年3月23日

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発車合図を待つ。機関士と機関助士、息の合った仕事ぶり  坂 C59164,624レ 1968年3月23日

  今から45年前の呉線。東京から広島まで夜行寝台列車「安芸」で16時間15分、時間が有効に使えて楽に移動できる、とビジネスマンたちに人気の列車で、なかなか切符が取れなかった。もちろん僕たちはそんな贅沢はできず、急行列車を乗り継ぎ、固い座席の上で夜を明しながら向かったものだ。

  今写真を見返してみると妙な懐かしさを憶える。穏やかな海、美しい街並み、よく手入れがされた田畑。物もなく不便な生活だったが、皆ゆっくりと、一生懸命に慎ましく暮していたように思う。

  今では新幹線で4時間足らず、急ぎの仕事ではとても便利なのだが、でも、それだけで良いのだろうか。

  当時、東京から27時間かけて鹿児島まで到達する急行列車「高千穂」があり、1958年までは急行「さつま」が東京を21:45に発ち。鹿児島到着は翌々日の早朝5:46。32時間かけて二晩列車の中で過す人がいた。夏の暑い盛りに冷房もない車内で、硬い椅子に座り30時間。

  今、それと同じことをやれと言われても到底無理なことは重々承知だが、もし"鉄道旅を楽しむ"のならば こういう贅沢な選択があってもよいかもしれない。

  写真説明でも触れたが、この1967年当時でも荷物専用列車だったが鹿児島から東京・汐留まで42時間半かけて走る列車も残っていた。

  懐かしい気持ちにさせるのは、ゆっくり流れる時間を共有しながら暮らし、旅ができた、今はもう失ってしまった心のゆとりがうむものなのだろう

1967-68年・春 呉線 ......完

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