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D60牽引の貨物列車は旅客列車の追い抜き待避待ち、対向する旅客牽引のC55がやって来た。

列車が頻繁に行き交う駅構内でも自由に撮影ができた良き時代だった  

筑前植木 C5519 , D6028 1970年3月31日

 できることなら、C55ではなくC51を、D60の代わりにD50を登場させてみたかったのだが、残念ながらぼくはC51の末期にかろうじて間に合った世代で、華やかに活躍している姿は見ることはできなかった。

 あと10年、いやあと5年早く生まれていれば、と当時本気で悔しがったものだ。

 D50は数両が残っていたが、改造されてしまったものが多く原形の美しさが損なわれ、魅力が薄れてしまっていた。むしろ、D60のほうに原形の面影が残されていて、好ましく思えたものだ

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C55は門デフがよく似合うカマだ。中でも57番は他の改造が少なくバランスが取れて一番美しかったように思う。

手前のD60の改造パイプ煙突が残念だ

原田 C5557, D6028 1968年3月28日

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C5552の足回り、タイヤがかなり薄くなってしまっている。
磨き上げられた鉄の美しさ。南九州ほどではないが、九州のカマは全般に手入れがよく行き届いていた

飯塚 C5552 1971年12月14日

 「筑豊本線はチェリオみたいだ」と僕の友人吉岡利隆君が言った。(残念なことに彼は2014年1月9日に、まだ若くして亡くなってしまった。たくさんの良き思い出に感謝したい)

 チェリオとは当時なぜか北九州に行くと良く目に付いた清涼飲料水のことで、ファンタやコーラと値段が同じながら量が多いのが特徴。金もなく腹も咽喉も空かせていた僕たちはその分量の誘惑に駆られてついつい手を出してしまうのだが、飲んでみていつもがっかりしていた。
 沿線にはどこと言って風景の良い所があるわけではないのだが、列車本数の多さに目が眩み何度か訪ねたのがここ筑豊本線だ。人口密度が高いところゆえ、旅客列車の本数も多くしかもそのほとんどが蒸機運転、石炭輸送の貨物列車の設定も多かった。表通りの鹿児島本線の陰に隠れて時代の流れから取り残されてしまったかのような所だったが、非電化複線の堂々たる線路を次々とやって来る蒸機を見ているだけでも楽しかった。

 撮影もいわゆる線路端写真が多くなり、ありきたりの写真を撮っていてもつまらないからと、片っ端から流し撮りをしたり、人物を絡めたり、変わったアングルを求めたりと、工夫しながら撮ってみたものだ。チェリオはそれなりだったが、それはそれで結構楽しむことはできたと思う。

 それでも今から考えれば、もう少し考えて撮っていれば何とかなったのにと反省することばかり。もしタイムマシーンがあったらば…、といつもの嘆きになってしまう。
 僕が訪れた昭和40年代半ばでも、筑豊本線沿線の風景は10年ほど前、昭和30年代のまま時間が止まってしまったように見えたものだ。

 それは、当時もう斜陽産業となっていた石炭に依存していた地域の最後の晴れ姿、だったのかもしれない。まるで蒸気機関車の活躍と同じように

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非電化複線の気持ち良さ!

筑前植木 C5552 1970年12月14日

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この角度から見るとD60とは分からない。太いボイラーとリベットが目立つテンダーは大正の香りを持ったD50その物だ。

ちょっとやれた客車の編成美も捨てがたい

筑前植木 D6046 1969年3月15日

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急勾配区間の冷水峠では、異形式の重連を多く見たような気がする。もっとも、貨物列車の補機回送を旅客列車に連結していたためかもしれないが

筑前内野 D6025+C55 626レ 1968年3月29日

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夕暮れの直方機関区。9600と向き合うD60だが、鋳造2軸の従台車はお世辞にもスマートとは言い難く、残念ながら全体のバランスを大きく壊してしまっている

直方機関区 79635 , D6026 1970年3月31日

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北海道の石炭輸送貨車セキに比べるとかなり小型のセラ。
末期とは言えまだ石炭採掘が続けられていた筑豊では石炭輸送は鉄道の重要な役割の一つだった

筑前植木 D6052 1969年3月15日

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朝の筑前植木駅

筑前植木 1970年12月14日

以上が「Jトレイン」Vol.03(2001年9月刊)に掲載したものです

以下に写真、文章を追加します

 
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直方機関区・直方駅

一日中煙の絶えることのない、機関区、駅構内

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直方駅の外れに、何本もの線路を横切って跨線橋があった。そして、おあつらえ向きの所にターンテーブルがあり、簡単にこんなアングルから撮影ができた。

ひしめく貨車、立ち上る煙、鉄道最盛期最後の姿がそこにあった

直方機関区 D50205 1967年3月26日

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同じく、跨線橋から

直方機関区 D6033 , D6032 , D609 1967年3月26日

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朝日に輝く古強者

直方機関区 D6026 1970年3月31日

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伊田線の列車 226レが到着し、筑豊本線飯塚行き725レは出発準備に忙しい

直方 C5519 , C11302 1970年4月1日

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直方駅構内。たくさんの人が働いている

直方 D60 1970年12月14日

冷水峠

筑前内野〜筑前山家間に「冷水峠」がそびえ立ち、鉄道は最急勾配25‰、頂上部に3,286mのトンネルで越えていた

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筑豊本線と言ってもここはまた別の線区のようだった

筑前山家 D60+C55 1968年3月29日

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朝焼けの中を721レが下ってきた

筑前山家 C5511 1968年3月29日

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平行する国道200号線も交通量は少なく、舗装こそされているようだが粗末な設備の道路だ

筑前内野 D6022+D6028 1968年3月29日

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こちらは山家側のトンネル入り口。排煙設備だろうか大きな建物が建っている

筑前山家 C55 , 742レ 1968年3月29日

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上の写真では「煙がもう一つ」と思い、2時間ほど粘ってもう一本撮影したものだと思う。

しかし、3月も下旬となり午後も遅い時間では気温も上がってしまい、こんなものだった

筑前山家 C55 , 744レ 1968年3月29日

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内野駅を出て峠に向かい快調に飛ばす

筑前内野 C5557 , 729レ 1968年3月25日

昭和の香り  

撮影したのは40年代半ばだが、時間が止まったかと思うのような光景に出会った

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春の昼下がり

筑前植木 D6022 1967年3月31日

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中間駅近くの高台から、遠くに遠賀川を望む。今では新興住宅街となり新しい家が密集しているようだ

中間 C5557 1969年3月15日

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背摺りが低く幅の狭い座席が独特の雰囲気を生んでいるキハ17の車内。

短距離だからいいや、という発想なのだろうが 、高度経済成長期の当時の考え方を示しているように思える 

1969年3月15日


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ゆったりとしたスペース、のんびりとした構内

筑前植木 D6028 1970年3月31日


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九州の冬の夜明けは遅い

筑前植木 1970年12月13日


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まだ明けぬ朝。少女はどこへ行くのだろう

筑前植木 D50140 1970年12月13日


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同じく筑前植木駅前。と言うよりも、どこからどこまでが構内で、どこからが道路なのか全く分からない、この曖昧な空間は、何とも素敵だ

筑前植木 D5142 1971年2月22日


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春先の九州では雨に悩まされることが多かった。しかしこうして見ると、それなりに雰囲気が出ていて、下手な曇り空よりは良かったのかも知れない

筑前植木 D50205 1971年2月22日


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なにやら童謡の世界のようだ

筑前植木 C55 1970年12月14日


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筑前植木 D6067 1970年12月14日


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東京から夜行急行で19時間、早朝の折尾で「降りよう」。筑豊本線に入り中間、筑前植木から撮影することが多かった。

7:10 にこの列車がやって来る時間でもまだ日は昇らない 。東京との”時差”は約40分、随分と遠くに来たものだと、当時は思ったものだ

中間 D60 , 1724レ 1971年12月13日


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なんと列車密度が高く、本数の多い線区だろう。

有人改札も今では珍しくなったし、改札口右手に見える「伝言板」も今では目にすることもない。携帯電話などなかった時代 、「伝言板」に書き残すことが貴重な通信手段だった

中間 1971年12月13日


走る!  

流せば良いってもん…なんだ!

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撮りようがなくなると流していた。「流せば良いってもん」じゃないのは分かっているのだが、こう次から次へとカマがやって来ると「えいっ、流しちまえ」となった。

ただ、C55はスポーク動輪から透けて見える姿が美しく、何度もトライしたものだ。

特に力行時には給水加熱器の排気が助士側に流れるので、機関士側から撮るとこれがスクリーンのようになって効果的だった。

今ならばモータドライブでバリバリと、楽に撮影できるのだが、当時は手巻きで細々と撮っていた

筑前植木 C5552 1969年3月21日


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中間〜折尾間には複々の区間があり、しかもちょっと小高いところに足場もあって、サイドからの流し撮りには格好の場所だった。

中間 C553 1969年3月21日


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筑前植木の直方よりは、朝のうちの光線が順光となり、ボディぎらりが期待できた。

パイプ煙突が残念なのだが、従台車が一軸の軽快さは捨てがたい

筑前植木 D50205 1970年3月31日


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ここもすっきりとした撮りやすい築堤があった

鯰田 D6046 1970年3月31日


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バランスの取れた姿だと思う

中間 C5552 1970年4月1日


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C53を思わせる大型のキャブ、そして大型の窓。だが、どうしても鈍重な鋳鉄製の従台車が気になってしまう

中間 D6046 1970年4月1日


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細かいことは、まぁいいか…

中間 D6028 1970年4月1日


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筑前垣生 C5546 1970年12月14日


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筑前植木 D50205 1971年2月22日


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筑前植木 C5551 1971年2月22日


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3連続写真です。もちろん、手巻き撮影

中間 C5557 1971年2月22日


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中間 C5557 1971年2月22日


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中間 C5557 1971年2月22日


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直方 C5552 1971年10月1日


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中間 D6063 1971年10月2日


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中間 C5552 1971年10月2日


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中間 D6025 1971年12月13日


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中間 D6025 1971年12月13日


筑豊とは… 

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直方 1971年12月14日


 筑豊は「悲しいところ」だった。


 1960年に土門拳が、誰でも買えるようにと、ざら紙に印刷した定価100円のまさにリアリズムの写真集「筑豊の子供たち」を刊行した。写真に興味を持っていたぼくも小遣いで買い衝撃を受けた。
 当時中学一年になったばかりだったが、そう年も違わない、いや後で知ったが、ぼくと全く同じ歳の「るみえちゃん」と妹の極貧の生活が写されていた。
 零細炭鉱のしかも閉鎖になって失業し、その父親すら亡くなってしまった姉妹の生活を追ったものだった。


 明治以降の日本近現代史は、背伸びして、追い付き、追い越せ、の無理に無理を重ねた歴史で、その象徴的な産業が近代化工業化になくてはならなかった石炭産業だろう。朝鮮から強制的に労働力、つまり朝鮮の人たちを連行動員し、劣悪な環境で働かせた。

 日本人労働者にしても最盛期にはそれなりに暮らし向きも悪くはなかったのだろうが、末期は悲惨なものだったようだ。三井三池の労働争議が話題になるが、労組もなかった中小、零細炭鉱の現場には、今で言うような格差よりもはるかに大きな差別があったようだ。

 

 ぼくがこの筑豊に行ったのは、石炭産業の最末期に近い時期、中小零細炭鉱は閉山し、前途に希望もなく暗澹としていた時期だったと思う。本文にも何度も書いたが、時間が止まってしまったと思うような光景、前途を悲観して歩みを止めてしまったような光景に出会い衝撃を受けた。十年近く前に写真集から受けた衝撃が現実の出来事として目の前に立ち上がっていたのだ。

 

 栄華盛衰は歴史の中では仕方のないこと、ではあるのだが、多くの名もなき庶民の犠牲の上に成り立った近代化とは一体何なのだろう。北海道の開拓史も同じだが、弱き庶民は常に使い捨てにされて、成り上がるのは一握りの厚顔な人たちだけだ。

 直方の名物に「成金饅頭」という菓子がある。いかにも直接的で、そのように名付ける感覚は当時からどうも好きになれなかった。

 筑豊炭鉱御三家というのもある。地方財閥、麻生、貝島、安川家を指すのだが、明治初期からの炭鉱採掘で財をなし、そこで蓄えた財産を元手に政界への進出、他産業への経営投資を行っている。膨大な数の庶民の汗と涙、そして血によって築かれた“帝国”だ。

 現財務大臣の、麻生太郎もその末裔の一人。多分学生時代には勉強をしなかったので漢字が読めないのだが、財力と人身遊泳術で今の地位を占めている。ヤクザもどきの格好をして高級バーに出入りしているそうだが、何とも胸くそが悪い。

 

 筑豊は悲しく、辛いところだ。 残念なことだが、日本近現代史の負の遺産を見る思いがしてならない。

 

 

筑豊本線・C55,D60 ......完   2015年4月28日

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