できることなら、C55ではなくC51を、D60の代わりにD50を登場させてみたかったのだが、残念ながらぼくはC51の末期にかろうじて間に合った世代で、華やかに活躍している姿は見ることはできなかった。
あと10年、いやあと5年早く生まれていれば、と当時本気で悔しがったものだ。
D50は数両が残っていたが、改造されてしまったものが多く原形の美しさが損なわれ、魅力が薄れてしまっていた。むしろ、D60のほうに原形の面影が残されていて、好ましく思えたものだ
できることなら、C55ではなくC51を、D60の代わりにD50を登場させてみたかったのだが、残念ながらぼくはC51の末期にかろうじて間に合った世代で、華やかに活躍している姿は見ることはできなかった。
あと10年、いやあと5年早く生まれていれば、と当時本気で悔しがったものだ。
D50は数両が残っていたが、改造されてしまったものが多く原形の美しさが損なわれ、魅力が薄れてしまっていた。むしろ、D60のほうに原形の面影が残されていて、好ましく思えたものだ
「筑豊本線はチェリオみたいだ」と僕の友人吉岡利隆君が言った。(残念なことに彼は2014年1月9日に、まだ若くして亡くなってしまった。たくさんの良き思い出に感謝したい)
チェリオとは当時なぜか北九州に行くと良く目に付いた清涼飲料水のことで、ファンタやコーラと値段が同じながら量が多いのが特徴。金もなく腹も咽喉も空かせていた僕たちはその分量の誘惑に駆られてついつい手を出してしまうのだが、飲んでみていつもがっかりしていた。
沿線にはどこと言って風景の良い所があるわけではないのだが、列車本数の多さに目が眩み何度か訪ねたのがここ筑豊本線だ。人口密度が高いところゆえ、旅客列車の本数も多くしかもそのほとんどが蒸機運転、石炭輸送の貨物列車の設定も多かった。表通りの鹿児島本線の陰に隠れて時代の流れから取り残されてしまったかのような所だったが、非電化複線の堂々たる線路を次々とやって来る蒸機を見ているだけでも楽しかった。
撮影もいわゆる線路端写真が多くなり、ありきたりの写真を撮っていてもつまらないからと、片っ端から流し撮りをしたり、人物を絡めたり、変わったアングルを求めたりと、工夫しながら撮ってみたものだ。チェリオはそれなりだったが、それはそれで結構楽しむことはできたと思う。
それでも今から考えれば、もう少し考えて撮っていれば何とかなったのにと反省することばかり。もしタイムマシーンがあったらば…、といつもの嘆きになってしまう。
僕が訪れた昭和40年代半ばでも、筑豊本線沿線の風景は10年ほど前、昭和30年代のまま時間が止まってしまったように見えたものだ。
それは、当時もう斜陽産業となっていた石炭に依存していた地域の最後の晴れ姿、だったのかもしれない。まるで蒸気機関車の活躍と同じように
以上が「Jトレイン」Vol.03(2001年9月刊)に掲載したものです
以下に写真、文章を追加します
一日中煙の絶えることのない、機関区、駅構内
筑豊は「悲しいところ」だった。
1960年に土門拳が、誰でも買えるようにと、ざら紙に印刷した定価100円のまさにリアリズムの写真集「筑豊の子供たち」を刊行した。写真に興味を持っていたぼくも小遣いで買い衝撃を受けた。
当時中学一年になったばかりだったが、そう年も違わない、いや後で知ったが、ぼくと全く同じ歳の「るみえちゃん」と妹の極貧の生活が写されていた。
零細炭鉱のしかも閉鎖になって失業し、その父親すら亡くなってしまった姉妹の生活を追ったものだった。
明治以降の日本近現代史は、背伸びして、追い付き、追い越せ、の無理に無理を重ねた歴史で、その象徴的な産業が近代化工業化になくてはならなかった石炭産業だろう。朝鮮から強制的に労働力、つまり朝鮮の人たちを連行動員し、劣悪な環境で働かせた。
日本人労働者にしても最盛期にはそれなりに暮らし向きも悪くはなかったのだろうが、末期は悲惨なものだったようだ。三井三池の労働争議が話題になるが、労組もなかった中小、零細炭鉱の現場には、今で言うような格差よりもはるかに大きな差別があったようだ。
ぼくがこの筑豊に行ったのは、石炭産業の最末期に近い時期、中小零細炭鉱は閉山し、前途に希望もなく暗澹としていた時期だったと思う。本文にも何度も書いたが、時間が止まってしまったと思うような光景、前途を悲観して歩みを止めてしまったような光景に出会い衝撃を受けた。十年近く前に写真集から受けた衝撃が現実の出来事として目の前に立ち上がっていたのだ。
栄華盛衰は歴史の中では仕方のないこと、ではあるのだが、多くの名もなき庶民の犠牲の上に成り立った近代化とは一体何なのだろう。北海道の開拓史も同じだが、弱き庶民は常に使い捨てにされて、成り上がるのは一握りの厚顔な人たちだけだ。
直方の名物に「成金饅頭」という菓子がある。いかにも直接的で、そのように名付ける感覚は当時からどうも好きになれなかった。
筑豊炭鉱御三家というのもある。地方財閥、麻生、貝島、安川家を指すのだが、明治初期からの炭鉱採掘で財をなし、そこで蓄えた財産を元手に政界への進出、他産業への経営投資を行っている。膨大な数の庶民の汗と涙、そして血によって築かれた“帝国”だ。
現財務大臣の、麻生太郎もその末裔の一人。多分学生時代には勉強をしなかったので漢字が読めないのだが、財力と人身遊泳術で今の地位を占めている。ヤクザもどきの格好をして高級バーに出入りしているそうだが、何とも胸くそが悪い。
筑豊は悲しく、辛いところだ。 残念なことだが、日本近現代史の負の遺産を見る思いがしてならない。
筑豊本線・C55,D60 ......完 2015年4月28日