早朝からの撮影
1964年2月、前年暮れの磐越西線・中山宿行きに続き二度目の撮影行が今回の御殿場線だった。
この年の春休み三月には「東北均一周遊券」を使って12日間の“大旅行”を計画していたのでその予行演習でもあったのだ。
学校の勉強をそっちのけにして、時刻表を参照して方眼紙にダイヤグラムを描いてみたり、時刻表を暗記するくらい眺めながら綿密なスケジュールを立ててみる、そんなときが一番楽しい時間だった。
撮影地は駿河小山〜谷峨に決めた。始発電車で家を出ても蒸機列車が集中する朝の時間帯には間に合わない。そこでいささか無謀ではあったが夜行列車で東京を発つことにした。
夜の東京駅は関西、九州方面への優等列車が続々と西下する。そのしんがりが23時30分発、大阪行き各停145列車だ。これに乗って沼津に1時48分に到着。しばし待合室で過ごし、御殿場線始発の4時40分の列車を待つ。ダブルエンジンのけたたましいキハ51の長編成列車に乗って、御殿場で乗り換えて駿河小山に到着したのは夜明け前の5時45分だった。こうすれば朝早くから効率よく撮影ができる、と思って立てたプランだが、いくら若かったとはいえ随分と無茶をしたものだ。我が家を出てから駿河小山まで8〜9時間はかかっていただろう。今ならば、車を使えば一時間もかからない所なのだが……
50年ほど前の、東海道新幹線も、東名高速も完成する前の話だ。
D52の魅力
御殿場線に行こうと思ったのはD52を見てみたかったからだ。高松吉太郎さんが撮った関ヶ原の勾配を猛烈な煙を上げて走る写真を見て、我が国最大の貨物機とは凄いもの、D52はいつもこうして走っているものなのだと勝手に思い込んでしまったのだ。近くの御殿場線に行けばこういう姿が見られるものと信じて出かけたのだが、全く無知のなせる技、走る線区で表情は違いそういうものではなかった。。
とは言え、前のめりになっているように見える太く長いボイラの重量感には圧倒され、、連続勾配を登ってくる姿は十分魅力的だった。
この後、すでに東海道・山陽から消えてしまい、ぼくがD52の本来の姿に出会うのは北海道噴火湾沿いのことだ。高松さんが撮ったような情景に出会い、この機関車の実力を見直した。
御殿場線には必ずしもD52という超大型機が必要だったかは疑問があるところだ。それほど長くない編成の列車仕業を考えてみればD51で十分こなせた仕事ではないだろうか。しかし当時はまだ全国的にはD51が不足していた時期、軸重が重くて行き場のないD52を救済していたというのが実情だったのではないかと思う。
力を持て余してはいたが、御殿場線というローカル線を走るD52には穏やかな別の魅力もあったと思う。
スイッチバック
ご存じのように御殿場線は1934年に丹那トンネルが開通するまでは東海道本線の一部であり複線の大幹線であった。貨客共に輸送量は多く、長い駅間には貨物列車や各停列車を待避させる信号場が設けられていた。勾配途中の信号場は列車の牽き出しのためにスイッチバックが採用された。通常は山間部に設けられることが多いスイッチバック構造だが。御殿場〜裾野間はなだらかな斜面を上っていく地形から、引き上げ線のために大きな築堤を築かねばならず特異な形態になっている。
岩波、富士岡の二つの信号場はその後駅に昇格し、複線片側のレールは撤去されて単線になった後はすれ違いのための施設となって活用されていた。電化以降は電車列車となり、貨物列車もなくなって勾配途中からの牽き出しが全く問題なくなると、スイッチバックは廃止されてしまった。
撮影をする上でスイッチバックは楽しいところだ。変化に富んだアングルが得られ、シャッターチャンスも多い。何よりも駅から遠く離れた現場に
まで歩いて行かなくても良いのは、ずぼらな性格には向いている。
この岩波では駅のすぐ南に複線時代の栄華を彷彿とさせるような立派な築堤があってそちらも楽しめた。天気が良ければ富士山も望むことができ撮影の魅力を凝縮させたようなところだった。
この駅の引き上げ線の小さな待合室で夜明かしをしたことがある。静かな田舎だからゆっくりと寝られると思い駅員さんに頼んだのだが、駅のすぐ側を国道246号線が走っていて一晩中轟々とトラックの音が絶えずあまりよく眠れなかった。東海道を行き来する、急峻な箱根越えを避けて迂回してきた大型トラックの通り道だったわけで、東名高速が開通するちょっと前のこと。日本一の幹線がそこに有ったのだ。
不思議な山北
山北は静かな駅、静かな町だった。
箱根越えの準備のために、かつてこの構内を貨物が埋め尽くし、たくさんの機関車が忙しく走り回っていた姿を想像することはなかなか難しかった。
しかし、広い構内を歩いてみると、あちこちに朽ち果てた建物が点在し、長いホームが何本も残り、立派な給水塔や跨線橋があり、往時の賑わいの片鱗を伺い知ることができた。
ぼくの御殿場への撮影行の最後はいつも山北だった。なぜかそこは勾配に挑む蒸機の荒々しさや興奮を楽しんだ後の火照った身体を冷ましてくれるような静謐な空気が満ちていた。
廃墟とは不思議なものだ。形がなくなりかけて朽ち果てようとしていても、強烈な残り香を感じることができる。そこで働いていた人々や物たちの魂が今でもそこに残っているからだろうか。