surugaoyama 01

駿河小山 D52403 913レ 1964年2月21日

surugaoyama 02

この日の最初のショット、山北始発の列車がやって来たのが6時15分ごろ。夜明けの遅い2月なのでようやく明るくなり始めたばかりだ。

トライXなど使えるわけもなくネオパンSSSを増感現像して何とか撮影している。

駿河小山駅への進入直前まで加減弁を開けて力行していることに驚く、勾配区間で長い編成を牽く列車の運転方法なのだろう

駿河小山 D52403 913レ 1964年2月21日

surugaoyama 01

列車の進入を撮ってから、急いでホームに駆け上がり先頭まで走って行く。交換列車もあって停車時間が長かったのかもしれない、発車時間に間に合った 

駿河小山 D52403 913レ 1964年2月21日

surugaoyama 01

この一連のカットは NikkorS 50mm F1.4 のほぼ開放 (一絞り絞ったF2.0かもしれない) で撮影している。

現代のレベルからすればどうしようもないレンズかもしれないが、あの時代としては頑張っていたと思う。

中心部の解像は良く、ニッコール独特の柔らかな描写が嬉しくなる

駿河小山 D52403 913レ 1964年2月21日

早朝からの撮影

 

 1964年2月、前年暮れの磐越西線・中山宿行きに続き二度目の撮影行が今回の御殿場線だった。

 この年の春休み三月には「東北均一周遊券」を使って12日間の“大旅行”を計画していたのでその予行演習でもあったのだ。

 学校の勉強をそっちのけにして、時刻表を参照して方眼紙にダイヤグラムを描いてみたり、時刻表を暗記するくらい眺めながら綿密なスケジュールを立ててみる、そんなときが一番楽しい時間だった。

 撮影地は駿河小山〜谷峨に決めた。始発電車で家を出ても蒸機列車が集中する朝の時間帯には間に合わない。そこでいささか無謀ではあったが夜行列車で東京を発つことにした。

 夜の東京駅は関西、九州方面への優等列車が続々と西下する。そのしんがりが23時30分発、大阪行き各停145列車だ。これに乗って沼津に1時48分に到着。しばし待合室で過ごし、御殿場線始発の4時40分の列車を待つ。ダブルエンジンのけたたましいキハ51の長編成列車に乗って、御殿場で乗り換えて駿河小山に到着したのは夜明け前の5時45分だった。こうすれば朝早くから効率よく撮影ができる、と思って立てたプランだが、いくら若かったとはいえ随分と無茶をしたものだ。我が家を出てから駿河小山まで8〜9時間はかかっていただろう。今ならば、車を使えば一時間もかからない所なのだが……

 50年ほど前の、東海道新幹線も、東名高速も完成する前の話だ。

daisann aizawagawa

時折みぞれが降る中、谷峨に向かって線路ばたを歩く。東海道本線時代の複線の雰囲気が残る「第三相澤橋梁」で撮影

駿河小山〜谷峨 D5270 1964年2月21日

daisann aizawagawa

天候も良くなくという言い訳ばかりではなく、初心者の悲しさか、ろくでもない写真ばかりだったが、最後は山北を出て上りにかかる貨物列車を陸橋の上から狙った。

駅を出て連続25‰の勾配にかかる。太いボイラから立ち上る煙は凄まじいが、火の粉止めを付けているのであまり美しい煙ではないのはが残念だ。

当時は写真を撮っている人も少なく、跨線橋からカメラを構えていただけなのだが機関士さんを驚かせてしまったようだ

山北 D5270 1964年2月21日

D52の魅力

 

 御殿場線に行こうと思ったのはD52を見てみたかったからだ。高松吉太郎さんが撮った関ヶ原の勾配を猛烈な煙を上げて走る写真を見て、我が国最大の貨物機とは凄いもの、D52はいつもこうして走っているものなのだと勝手に思い込んでしまったのだ。近くの御殿場線に行けばこういう姿が見られるものと信じて出かけたのだが、全く無知のなせる技、走る線区で表情は違いそういうものではなかった。。

 とは言え、前のめりになっているように見える太く長いボイラの重量感には圧倒され、、連続勾配を登ってくる姿は十分魅力的だった。

 この後、すでに東海道・山陽から消えてしまい、ぼくがD52の本来の姿に出会うのは北海道噴火湾沿いのことだ。高松さんが撮ったような情景に出会い、この機関車の実力を見直した。

 御殿場線には必ずしもD52という超大型機が必要だったかは疑問があるところだ。それほど長くない編成の列車仕業を考えてみればD51で十分こなせた仕事ではないだろうか。しかし当時はまだ全国的にはD51が不足していた時期、軸重が重くて行き場のないD52を救済していたというのが実情だったのではないかと思う。

 力を持て余してはいたが、御殿場線というローカル線を走るD52には穏やかな別の魅力もあったと思う。

surugaoyama 01

二度目の撮影行は、高校3年の春。今回は東京駅15:00発 姫路行き各停143レで国府津に向かい16:40着。

この列車は翌朝6:45に姫路着、今では考えられないような列車が走っていたのだ。

まずは国府津機関区へ。夕日に包まれて出庫を待つD52403に出会った

国府津機関区 D52403 1965年5月4日

surugaoyama 01

D52403に牽かれた御殿場行きの最終蒸機列車でやって来た。駅で夜明かしをして翌朝を迎える。

発車を待つ沼津行き始発列車。、脇に並ぶキハ51の長い編成に圧倒される

御殿場 D52403 911レ 1965年5月5日

surugaoyama 01

残念ながら曇り空で待望の富士山は見えなかった。反対側から上ってくる山北始発の列車も、かろうじて見えた足柄の山をバックに撮影。

こうして見ると引きつけた“決まりショット”よりも引きで撮ったショットのほうが味があるではないだろうか、何とも難しいところだな

御殿場 D5270 913レ 1965年5月5日

surugaoyama 01

御殿場 D5270 913レ 1965年5月5日

スイッチバック

 

 ご存じのように御殿場線は1934年に丹那トンネルが開通するまでは東海道本線の一部であり複線の大幹線であった。貨客共に輸送量は多く、長い駅間には貨物列車や各停列車を待避させる信号場が設けられていた。勾配途中の信号場は列車の牽き出しのためにスイッチバックが採用された。通常は山間部に設けられることが多いスイッチバック構造だが。御殿場〜裾野間はなだらかな斜面を上っていく地形から、引き上げ線のために大きな築堤を築かねばならず特異な形態になっている。

 岩波、富士岡の二つの信号場はその後駅に昇格し、複線片側のレールは撤去されて単線になった後はすれ違いのための施設となって活用されていた。電化以降は電車列車となり、貨物列車もなくなって勾配途中からの牽き出しが全く問題なくなると、スイッチバックは廃止されてしまった。

 

 

 撮影をする上でスイッチバックは楽しいところだ。変化に富んだアングルが得られ、シャッターチャンスも多い。何よりも駅から遠く離れた現場に まで歩いて行かなくても良いのは、ずぼらな性格には向いている。

 この岩波では駅のすぐ南に複線時代の栄華を彷彿とさせるような立派な築堤があってそちらも楽しめた。天気が良ければ富士山も望むことができ撮影の魅力を凝縮させたようなところだった。

 この駅の引き上げ線の小さな待合室で夜明かしをしたことがある。静かな田舎だからゆっくりと寝られると思い駅員さんに頼んだのだが、駅のすぐ側を国道246号線が走っていて一晩中轟々とトラックの音が絶えずあまりよく眠れなかった。東海道を行き来する、急峻な箱根越えを避けて迂回してきた大型トラックの通り道だったわけで、東名高速が開通するちょっと前のこと。日本一の幹線がそこに有ったのだ。

surugaoyama 01

御殿場から岩波に移動。駅の南側の築堤で貨物列車を待つ。

お気に入りのD52403(前回から何度も出会い馴染みがあり、前照灯がシールドビームではなく格好良かった)がやって来た

岩波 D52403 1965年5月5日

surugaoyama 01

続いてやって来る916レは引き上げ線の築堤の上から撮影。

岩波 D5270 916レ 1965年5月5日

surugaoyama 01

堂々とした幅広い築堤、複線時代の遺構が残っている

岩波 D5270 916レ 1965年5月5日

surugaoyama 01

これは翌1966年の訪問。山陽筋の貨物列車の電化で余剰となったD52が何両かこちらに回ってきた、この135番もその一両。

現車7両、オハ、スハ混ざって換算26、7車だろうか 、黒煙を上げて頑張っている

岩波 D52135 920レ 1966年5月9日

surugaoyama 01

夕暮れの引き上げ線

岩波 D52 919レ 1966年5月10日

surugaoyama 01

沼津行き朝の一番列車

岩波 D52403 911レ 1966年5月10日

surugaoyama 01

これも沼津行き朝の一番列車。翌11日は土砂降り、と言うよりは風も強く春の嵐のような天候だった

岩波 D52335 911レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

沼津から上ってくる最初の蒸機列車914レ。お気に入りのD52403だったが残念、前照灯がシールドビームになってしまった

岩波 D52403 914レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

引き上げ線から発車して、246号線の踏切を越える。三度の横断で踏切は閉まったまま、大型トラックが長蛇の列を作っていた

岩波 D52403 914レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

長い通勤列車牽き、引き上げ線に停車した下り列車

岩波 D52101 913レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

水平な引き上げ線、そして25‰の本線。わずか数百メートルだけでこれだけの高低差ができる

岩波 D52101 913レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

ようやく富士山が姿を表した

岩波 D52135 913レ 1966年5月10日

surugaoyama 01

田んぼにはレンゲの花が咲き、絵のような富士山が背景に浮かび上がる

岩波 D52403 1966年5月10日

surugaoyama 01

続いて旅客列車が

岩波 D52236 916レ 1966年5月10日

不思議な山北

 

 山北は静かな駅、静かな町だった。

 箱根越えの準備のために、かつてこの構内を貨物が埋め尽くし、たくさんの機関車が忙しく走り回っていた姿を想像することはなかなか難しかった。

 しかし、広い構内を歩いてみると、あちこちに朽ち果てた建物が点在し、長いホームが何本も残り、立派な給水塔や跨線橋があり、往時の賑わいの片鱗を伺い知ることができた。

 ぼくの御殿場への撮影行の最後はいつも山北だった。なぜかそこは勾配に挑む蒸機の荒々しさや興奮を楽しんだ後の火照った身体を冷ましてくれるような静謐な空気が満ちていた。

 廃墟とは不思議なものだ。形がなくなりかけて朽ち果てようとしていても、強烈な残り香を感じることができる。そこで働いていた人々や物たちの魂が今でもそこに残っているからだろうか。

surugaoyama 01

山北 D52335 1966年5月11日

surugaoyama 01

平坦な構内でできるだけ加速して、25‰の上り勾配に突っ込む

山北 D52335 1966年5月11日

surugaoyama 01

こんな所まで貨物ヤードが延びていたのだろう、往事の栄華を忍ばせる石垣も残っていた

山北 D52335 1966年5月11日

surugaoyama 01

ただならぬ駅であったことがよく分かる

山北 D52236 918レ 1966年5月11日

surugaoyama 01

山北 D52403 1965年5月5日

surugaoyama 01

再び初回の訪問1964年2月に戻ります。ネオパンSSSの増感現像で最後の列車を狙いました。

撮影したときは「フカフカでこりゃダメだ」と思っていたのですが 、こうやって今見直してみると柔らかい描写にも味があることに気づきます。

まさか、デジタル技術でこんなことをやるようになるとは当時は想像すらしていません 。51年前の高校一年の時のことです

山北 D52403 919レ 1964年2月21日

surugaoyama 01

山北 D52403 919レ 1964年2月21日

surugaoyama 01

山北 D52403 919レ 1964年2月21日

以上が「Jトレイン」Vol.14(2004年3月刊)に掲載したものに大幅に手を加えて、写真も多数追加しました

御殿場線 ......完   2015年5月08日

inserted by FC2 system 無題ドキュメント inserted by FC2 system