Masaki01

D51687+...+D51,842レ

70年12月20日

Masaki01

D51687+...+D51,842レ

70年12月20日

静かな大きな駅

 吉松から25‰の急勾配を喘ぎ喘ぎ上って来て最初に停車するのが真幸駅、スイッチバック構造を持つ山間に広がる大きな駅だ。広い谷の奥まったところに、地形をうまく利用して造ったまるで模型のレイアウトのような構内、外れにある風雪に洗われた風情のある信号転轍扱い所が良い雰囲気を造っている。  

 列車を降りてホームに足を踏み入れようとして一瞬ためらってしまった。玉砂利のような小石が敷き詰められ、まるで石庭のように刷毛目が入っていて足跡を残すのをはばかったのだ。きちんと形を整えられた植木、簡素だが清潔な建物、みな職員たちが合間時間にこまめに手を入れているたまものだったのだ。

 付近には小さな集落があるばかりで行き止まりの道をやって来る車の数も少なかった。正面に霧島の山々を見下ろす眺めの良い美しい静かな駅だった。

 

Masaki01

70年12月21日

Masaki01

70年12月19日

Masaki01

67年3月29日

 

 

日本三大車窓展望

Masaki01

D51+D51 回6860レ

71年12月16日

三大車窓展望

 矢岳越えは日本三大車窓展望の一つと聞き、それはループ線で有名な大畑の辺りのことだろうと勘違いをしていた。実は真幸から矢岳に上って行く時に右手に広がる加久藤の盆地と霧島連山の眺めだと知ったのは現地に行ってからのことだった。
 真幸の駅を出ていくつかのトンネルを抜けて右手の展望が開けると足下に京町、加久藤の平地が広がりその向こうには霧島の山々が堂々と聳えていた。狩勝旧線のような大陸を思わせるような大スケールの展望ではなかったが、良く整った日本的な美しい風景だった。
 長い矢岳第一トンネルに突入する直前の1kmちょっとの区間がハイライト。伐採された跡の斜面からこの風景をバックに列車が撮れるところを発見した。北から南を見るようになるので条件は悪いが、むしろ朝の逆光のシルエット列車狙い、しかも秋〜冬期が良いのではないか判断した。何度かトライしたが、ようやく納得できたのはある年の12月の撮影行のことだ。
 始発の840レは真幸を6時24分発、現場まで小一時間かかるから5時には"定宿"の駅を出る。辺りはまだ真っ暗で上空の星の瞬きが上天気を告げてくれている。南国とは言え夜明け前は寒い、良く晴れ上がり今朝は一段と寒さがきつい。懐中電灯を片手に線路脇を歩きトンネルを抜けて現場には6時前に到着。伐採跡の斜面に足を踏み入れるのだが、普段はマムシが多く気持ちが悪い所、しかし霜が降りる今の季節は冬眠に入っただろうから少しは安心できる。
 南東の空がオレンジ色に輝き、足下の盆地は霧に覆われている、霧島の山々は黒く大きく聳え荘厳な夜明けの風景だ。霧の中に煙が動いている、吉都線の列車が東に向かって走っているところだ。
 840レがやって来る6時40分ごろはまだ日の出前、白煙がほんのりピンク色に染まり、はかなく美しいが、車体がつぶれてしまい写真にはならない。本日の本命は7時半頃通過の重連貨物回送6860レだ。
 太陽が顔を出し眩い朝の光が辺り一面に広がる。寒さに震えていた体には陽の暖かさは何よりもありがたいものだ。
 残念ながら足下に広がっていた霧は徐々に薄くなってしまったが、遠くで二つの汽笛が鳴りブラストが聞こえてきた。何度か音が途切れるのはトンネルに入っているからだが、再び聞こえるたびにより大きな音となって近づいてきた。
 25‰上り勾配とは言え空荷の身軽さ、ロッドの音を響かせて軽やかに2両のD51は目の前を駆け抜けて行った。小気味の良いブラストが遠ざかり長い汽笛の後、矢岳第一トンネルに入ってしまうと元の静寂が戻ってくる。静かな冬の朝だ。

 

 

Masaki01

そして、翌朝 D51+...+D51 6860レ

71年12月17日

Masaki01

後補機 D51+...+D51 6860レ

71年12月17日

Masaki01

そして。足下には加久藤あたりを走る吉都線の624レの煙が見えた。

71年12月17日

Masaki01

何度かトライしているのだが、これが初めてのカット。

D51 840レ 69年10月28日

 

 

もう少しここの展望にお付き合いいただこう

Masaki01

日が昇り、逆光になってしまうが842レがやって来た。

71年12月16日

Masaki01

展望ではないが、反対側から夕方の光線で872レを狙う。

71年12月24日

Masaki01

朝の光線で、「矢岳第一隧道」に入る前の842レを狙う。

72年2月24日

Masaki01

雄大な展望だけではなく伸びやかな風景の中で色々なアングルで撮影できた。

872レ 71年10月8日

Masaki01

山を下る列車。

1121レ 71年10月8日

 

トンネル

Masaki01

煙、蒸気と共に飛び出してくる光景はよく狙った、ポイントは光線だった。

842レ 70年12月20日

Masaki01

後補機の健闘。

842レ 70年12月20日

Masaki01

完全燃焼してカマの調子もよさそうだ。

842レ 71年12月24日

Masaki01

力行していなくとも、ほどよい煙が絵にしてくれる。

1121レ 71年12月24日

Masaki01

全長2096mの「第一矢岳トンネル」南側ポータル。

4589レ 71年12月24日

 

 

Masaki01

「踵蔓(かがつる)トンネル」

71年2月27日

 

駅に戻ってみましょう

 

Masaki01

駅構内周辺だけでもたくさんの撮影ポイントがありました。

872レ 70年12月21日

Masaki01

4589レが吉松に下り、836レが発車待ちです。左側留置線の二両のカマは廃車され解体待ちでここに留め置かれています。

4589レ、836レ 71年3月5日

Masaki01

どうしても光線のよい晴天の日の写真が多くなってしまいますが、実際には曇りや雨の日も遭遇しています。

というより 、春先の南九州は「なたね梅雨」で雨になることが多く随分と苦労をしました。

842レ 71年3月1日

Masaki01

近くの山に登ればこんな展望も。

842レ 71年12月25日

Masaki01

構内はずれには「真幸鉱泉」がありました。湧かして水浴するのではなく、飲用のようで、一升瓶に詰めて時々列車で出荷していました。

71年10月8日

Masaki01

そして、構内はずれには… 開業当時のレイルが残っていました。「カーネギー 1900」と読めます。

71年2月27日

Masaki01

気分のよい夕方です。

71年12月19日

Masaki01

確か2両いたスハ32は独特の風格がありました。

71年3月1日

Masaki01

71年3月5日

Masaki01

山を下ってきたカマはタイヤクーラーの水は出しっ放しだった。

843レ 71年10月7日

Masaki01

843レ 70年12月21日

Masaki01

組合運動も結構激しかったのだが、職員さんたちが自主的に清掃整備を行っていたようだ。

乗降客もそれほど多くないから、と言ってしまえば身も蓋もないのだが、足跡を残すのをはばかるほどきちんとした仕事をしていた職員さんの気持ちははっきりと残しておきたい。

71年12月16日

Masaki01

ほぼ全列車が定数一杯の荷を持ち、余裕のないダイヤで正確な運転を強いられた日々。機器は全てアナログ、研ぎ澄まされた神経と経験だけが頼りの厳しい仕事だったと思う。

70年12月20日

Masaki01

手順通りに正確に、一晩中作業は続く。

71年2月28日

 

Masaki01

機関車を運転する人、それを支える人々、本当に多くの人の力で鉄道が動いていた。「合理化」という名目で機械化され人は減らされ、鉄道の産業としての規模は激減してしまった。

たくさんの人が働くことができた職場、職種。そのこと自体が“悪”だったのだろうか? 合理化されて、人々の生活は合理的に、素晴らしくなったのだろうか? 

“非正規雇用者”の数が増える現状に直面して“合理”“進歩”とは一体何なのだろうと思ってしまう。

72年2月24日

 

Masaki01

”仕事”とは一体何なのだろう。時には途中で子供たちと雑談、戯れ、からかって… その総体が仕事じゃないか。四角四面の生き方じゃなく、もっと緩い生き方があっても、いや、昔通りの緩い生き方があっても、いいんじゃないかな。

72年2月23日

 

Masaki01

毎日決まった列車で、決まった時刻にやって来る行商さん。 

843レ 71年2月27日

 

Masaki01

こちらは別の行商さん。手作りのカゴに自転車のタイヤを使った背負いひも。質素な身なりは当時の庶民の姿を表してはいませんか。お客さんは地元の名家なのだろうか、ちょっと裕福そうな格好をしています。

ぼく自身、ダウンコートもゴアテックスもなく、今と比べればず〜っと質素な格好をしていたもんな。

71年12月17日

 

Masaki01

こちらもまた別の行商さん。なにしろ車がそう自由に使えない時代だから、鉄道を使って大荷物を担いで売り歩く商売ができたのだろう。

71年12月18日

 

Masaki01

木製の椅子、出札窓口、ディスカバージャパンのポスターさえも、何もかも愛おしく思えてくる。

71年3月5日

 

 

夜汽車

Masaki01

とは言っても、これは早朝の840レです。日の出の遅い時期の撮影は難しく、明るくなりかけた東の空をバックに築堤を行くシルエットを狙いました。

71年12月18日

 

Masaki01

ある日の1122レです。849レの到着を待って21:49に吉松発車します。

吉松 71年12月23日

 

Masaki01

テンダの上では、タービンの排気をまともに受けながら、燃料係が石炭のかき寄せ作業に奮闘中です。多くの人手を使って蒸機は運転されていました。

吉松 71年12月23日

 

Masaki01

真幸には22:07,30秒到着、22:15発車。スイッチバックの引き上げ線へ後退していきます。

71年12月23日

 

Masaki01

引き上げ線で加速をつけて25‰の勾配に突入します。

71年12月23日

 

Masaki01

数秒ごとの投炭でキャブの中も、煙も、オレンジ色に輝き、それはそれは美しい光景です。

71年12月23日

 

Masaki01

トンネルに突入するまでの、わずか十数秒ですが、至福の時間でした。

71年12月23日

オレンジ色の噴煙に魅せられて何度かトライしたのですが、所詮暗すぎ、そしてコントラストが強すぎてうまくいきませんでした。現代の機材があればなんとか……と思うのですが……

カメラは「OLYMPUS 35SP」F1.7開放で1/8sec. TriXを増感しASA1600だったと思います。

 

 

 

 

惜別

 

Masaki01

列車に乗る前の時間を持て余していたのだろうか、留置線に置かれた廃車になった蒸機をいとおしむかのように長い時間見続けている女性の姿があった。

ぼくの思い過ごしかもしれないが、去りゆく者たちの姿に自分の半生を、思い出を重ね合わせているのかもしれない。

何事においても「別れを告げる」ということは難しいことだが、「自分なりの別れを告げかた」はあるのだろう。

71年3月5日

Masaki01

真幸ではなく矢岳での撮影ですが、当時のファッションをよく表しているように思い載せました。

若い女性は… 撮るのも恥ずかしく、このカットは一枚だけ。それにわずかにブレています、純情な?ぼくはドキドキしながら撮ったのでしょう。

72年2月22日

 

Masaki01

「ななつぼし」とやら、バブルの象徴のような、浮かれた列車が走るその足下には、多くの先人たちの汗と涙が染み込んでいることを忘れないでいよう。

JR九州といえば「水戸岡デザイン」の”猿まね・パクリ”が横行し、おかしな評価を受けているところだ。

「つばめ」がフランスTGVを、「かもめ」がドイツICE3をパクったデザインであることは誰もが認めることなのだが、それ以外も、この細部はTGVだな、この洗面所はAVEだな…数限りなくと言ってももよいほど、お手本がはっきりとしている。

ぼくは 「鋭チャンのドーンと真似てみよう」だと思っているのだが、世間様は何も知らないのか“高い”評価をしているようだ。

「ななつぼし」にしても機関車のフロントグリルは「アルファロメオ」だし、 「古代漆」という塗色にしても、谷崎潤一郎が「陰翳礼賛」で書くように「漆とは小さなものを暗がりで見るからよい」ではなく、

馬鹿でかい、タンスよりもでかい物を白日の下にさらすなんて、これは決して良質な日本文化じゃないよな。

ぼくの「七つ星・北斗七星」は命を終えようとするカマの頭上に燦然と輝いている。

72年2月23日

 

鉄道の魅力
 旧いものには独特の味わいがある。僕は最近、鉄道の魅力とは機械や施設を手間暇かけて長く使っていくうちに生まれた"ぬくもり"のようなものによるものではないかと考えるようになった。ただ旧いというだけでなく、面倒を見た人たちが注いだ愛情と汗がただの機械や建物を心地よいものに変えていく、旧いものが良いのではなく蓄積されたものが掛け替え無いのではないだろうか。本質的にはは使い捨て文化とは対局にあるもののように思っている。
 社会全般が変わってしまった今、なかなか魅力ある鉄道風景を見つけるのが難しくなってしまった。昔が全て良かったわけではないが、特にこの肥薩山線と真幸の駅はそういう意味でも鉄道の魅力に満ち溢れたところだったと思う。

 

以上が「Jトレイン」Vol.08(2002年12月刊)に掲載したものに大幅に手を加えて、写真も追加しました

肥薩線矢岳越え・真幸 ......完   2016年1月2日

Top へ戻る
inserted by FC2 system 無題ドキュメント inserted by FC2 system