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後補機と共に横平トンネルを出て大畑駅に進入する841列車。駅構内にはすでに到着した840列車が待っている。

人吉から朝一番に上ってくる841列車は、ぼくの知る限りではある短い時期だけ後補機がついていた。この画は、後補機が トンネル内で使っていた集煙装置を通常に切り替えた直後の情景だ。

車両にまとわりつく煙、蒸気が長かったトンネル内での奮闘を物語っている。

69年3月29日

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ループ線から大野築堤を行く列車を見る。

845列車 大畑〜矢岳 72年3月2日


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カマの調子が悪かったようだ、歩むような速度でやって来た4589列車。

ぼくも随分長い間蒸機の写真を撮っているのだが、これほどの黒煙を見たことはなかった。

実はこの時には、後ろからかなりの強風が吹いていて、煙が機関車の周辺に溜まってしまうような状況にあったからでもある。 

それにしても、ご覧の通りブロワを全開にして通風を確保しているのは、よほど火床の状態が悪かったのだろう。

本当に低速度で目の前を通り過ぎるときには、シリンダからか“ギーギー“と音も聞えていた。

幸いなことに戻ってこなかったので、何とか矢岳まではたどり着いたのだろう。

大畑〜矢岳 71年3月4日

 


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夕日に映える 845列車。風の強い不安定な天候の夕方だったが、夜半から雪が降り出して翌朝は真っ白な銀世界が拡がっていた。 

大畑〜矢岳 大野築堤 72年3月1日


 肥薩"山線"には格別の想い出が有る。  急勾配、急カーブ、トンネル、展望の良い景色、大きな輸送量、スイッチバックそしてループ線。鉄道写真を撮るための魅力的な要素がこれほど凝縮された所は他にはあまり無かったと思う。

 かつての北海道狩勝旧線も素晴らしかった。残念なことに最後の冬に二日間ほどちらりと見ただけで終わってしまった彼の地が忘れられず、同じ「日本三大車窓展望」と言われた「矢岳越え」を初めて訪れたのは翌67年3月のことだ。慌ただしい日程の中での一日だけだったが、予想に違わぬスケールの大きな風景と極限に近いと思わせるような蒸機運転にすっかり魅了されてしまった。

 その後何度も通うことになり、大畑と真幸に三、四日ずつ、いつも一週間ぐらいは滞在していた。しかし何度行っても次々に新しいアングルが見つかり、また思わぬ気象条件に出会ったりでいつまでたっても終わりはなく、それだけ、のめり込み愉しい撮影地だった。   しかし、写真に撮るには素晴らしいのだが実際の運転、保守はそれはそれは大変だったはずだ。最急勾配30.3‰、300Rのカーブ、牽引定数25車、重装備のD51二両で500トンの列車を押し上げる。今と違って貨物輸送の主役がまだ鉄道だった時代、ほとんどの列車が定数一杯持たされていたはずで、調子の良いカマ悪いカマ、それぞれに職人たちが苦労しながら操っていた。

 実は僕も何度かキャブに添乗させてもらったのだが、この職場の凄まじさは言葉では言い尽くせない。現在だったらば到底許されないレベルの"劣悪な"環境だと思う。しかし誤解を恐れずに言えば、これほど面白いものはなく、工夫と経験で乗り切ってゆく職人にただただ頭が下がるばかり、薄っぺらな知識や小手先の技術など吹っ飛んでしまう。

 これは多分、鉄道の世界だけでなく近代日本の工業技術と言うか物事を動かしてきた世界が、無駄なことをする人間がいたり、ひたすら機械を磨いている人間がいたりする大きなピラミッドがあって、その上部にある部分を支え運営されてきたということではないだろうか。僕がキャブの中で見たのはそんな幅広い裾野があって、まるで綱渡りのような危なっかしいことを毎日平気でやっていた人たちの仕事だったのだと思う。

 合理化が叫ばれ人減らしをしなければならない今の時代、ピラミッドは中空となり切れ味の良い技を支える術は無くなり、綱渡り自体が許されなくなってしまった。

 この当時の僕の撮影スタイルは基本的に「駅寝」。終列車の後、待合室に寝袋を広げて夜明かしをするというもの、厳密に言えば許されないはずだが、ある節度を守ることで黙認してもらった。 眠れぬ夜を過ごすこともあり、早朝の天気が気になるあの緊張感は忘れられない。朝は、始発の随分前に起きて撮影地に、お陰で朝一番の誰も見たこともないような景色の中を行く列車を何度か撮ることができた。

 一日歩き回り疲れて駅に戻ると夕方の列車で人吉へ下りる。駅近くの銭湯で汗を流し、スーパーで翌日の食料の買い出し。マーガリンを持ち歩いているので食パンと魚肉ソーセージのメインディッシュ、甘夏柑のデザートも付く豪華な朝、昼食の用意だ。

 駅前食堂で「チャンポンとおにぎり、お湯割り球磨焼酎を一杯」頼んで優雅な夕げを楽しむと矢岳に上がる最終列車の発車時間も迫ってくる。いつものなじみの顔触れの客車に乗るか、たまにキャブに添乗して大畑か真幸に戻る、と言う一日だった。

 満足な機材も金もなく苦しかったが、どうしたら良い写真が撮れるか悩みながら毎日がとてつもなく愉しかった。 お世話になったり、写真を渡したり、素晴らしかったのは蒸機と景色ばかりでなく、見守ってくれた優しい人たちと良い関係を作りながら撮影していた日々……。

 1972年3月、ここから蒸機の煙が消えた春、僕は大学を出て職業カメラマンになることにした。独学で覚え、趣味で撮っていただけの写真で無謀にも飯を食ってみようと決意をしたのだ。

 あれから三十年、あの時を思い出してみると、何か夢を見ていたような気もする。

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841列車が構内に進入してくる。右手スイッチバックの引き上げ線には840列車が入り、後退中だ。 

大畑 67年3月29日


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門司港発都城行き夜行の各停列車、1121列車がスイッチバックを抜けてループ線にかかる。手前は不定期貨物6860列車。

大畑 70年4月8日


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1121列車が矢岳へと上り、6860列車が人吉へと下る。

大畑 70年4月8日


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山を下りてくる列車はほとんどが早着し、長い待ち時間の後ドレインを長く切りながら発車してゆく。 背後に見えるのは宮崎県境の市房山。

842列車 大畑 70年12月24日


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大野の築堤を行く夕方の列車。

845列車 大畑 大野築堤 69年3月30日


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霧の朝、大野第一トンネルを出た1121列車、門司港と都城を結んでいた夜行列車。 湯前盆地は霧の中に沈み、遠くに市房山が見える。

大畑〜矢岳 69年10月26日


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何とかループを表現できないかと考えた。空撮が出来ればよいのだがそんなことは夢のまた夢。手近な一番高い山に登ったが残念ながらこの程度であった。人吉盆地はまだ霧の中に沈んでいる。

この時、樹木の無い見通しのよい高い山の上で 待っていたのだが、突然ジェット戦闘機に襲われた。

音速に近い高速度で近づいたのかもしれない、音も無く近づいた機体は”ドカ〜ン“という大音響と共に、頭上飛20mぐらいを飛び去って行った。振り返り確認するとそれは”F-4D・ファントム」だ!

ベトナム戦争華やかなりしとき、板付から嘉手納に、そして戦場へと向かう米軍パイロットの遊び相手をさせられたようだ。

戦争は人を狂気にしてしまうのだが、日本で束の間の享楽にふけり、戦場に向かう途中でちょうどよい練習ターゲットを見つけたのだろう。

日本はアメリカの属国だとはいえ、随分と舐められたものだが、この国のすぐ隣で、いや、この国も巻き込んで戦争が行われていたのだ。

843列車 大畑〜矢岳 70年12月23日


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ループ線を行く夕方の列車

845列車 大畑〜矢岳 71年12月20日


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煙と蒸気に包まれてトンネルを飛びだす。 

4589列車 人吉〜大畑 横平トンネル 71年12月20日


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大野第一トンネルの出口付近。滑り止めの砂が降り積み、軌条に残る空転跡が痛々しい。

大畑〜矢岳 71年3月4日


肥薩線矢岳越え

 1909年(明治42年)11月21日に人吉〜吉松間が開業して鹿児島本線が全通した。これによって鹿児島本線のみならず、関門海峡を連絡船で渡り、青森から鹿児島を結ぶ我が国の鉄道幹線が完成したのだ。

 後に、八代〜鹿児島間は海沿いの線路に取って代わられ、今では一地方線になってしまったのだが、沿線を子細に見てみると尋常ならざる線路配置、構築物には驚かされる。

 それにしても、標高107mの人吉から538mの矢岳まで上り、224mの吉松まで下る35.0Kmのこの線区の工事は大変だったに違いない。2000mを越える矢岳第一トンネルをはじめ、長いトンネルを何本も掘り、大野に見られるような大築堤を築き、スイッチバック、ループを駆使して勾配を克服している。沿線に大きな集落はなく、大きな機械も使えない時代に、人力を頼りに全くの山間部に鉄道を敷設した先人たちのご苦労はいかばかりであっただろうか。

 このような線区で、人々の生活を、命を、健気に生き生きと運んでいた列車、蒸機機関車たち。

 怒られるのを覚悟して言うが、これほど素晴らしいところは無かった、鉄道写真の桃源郷だった、と今でもなつかしく思い出す。

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夕方、急行列車で人吉に下り、風呂と夕食をとる。翌日の買い出しをして、最終列車でまた山に上っていく。

真っ暗で広い構内の外れから、本日の牽引機が近づいてくる。

849列車 人吉 71年3月1日


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「望煙マスク」が常備されていたが、常時使っていたわけではない。特に助士はそんな物を付けていたらば仕事にならなかっただろう。いざという時のためのものだったようだ。

それにしても、ナンバープレートだけではなく、鉄板まできれいに磨き上げられ、九州のカマの手入れの良さがよく分かる。

849列車 人吉 71年3月1日


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勾配区間に入る手前、機関士はボイラ圧力計が気になり、助士は火床の状態を確かめている。

849列車 人吉〜大畑 72年2月27日


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一晩中、貨物列車の運行は途切れることはない。

大畑 72年2月26日


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深夜の勤務。

大畑 69年3月29日


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忙中閑あり。実は、駅のストーブの燃料が少なくなり、駅長さんと駅員さん二人で停車中のカマに行き石炭を分けてもらっているところです。

今だったらば、うるさく糾弾されそうですが、当時はそんなこともなくおおらかな時代でした、一体こんな世の中に誰がしてしまったのだろう。

大畑 69年3月28日


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信号扱い所の内部です。

大畑 72年2月26日


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普段は乗客の少ない大畑駅に、ときならぬ大勢のお客さんが出現した。なんと駅が募集した団体旅行だった。

経営改善のために集客ノルマを課せられて、駅員さんたちが努力して集めた貴重な団体のお客さんたちだ。

しかし、通常の半車の客車には乗り切れず、荷物室も開放して収容することになった。

人吉までの一駅だからまぁ良いか、たまさかの遊覧旅行で皆楽しそうだ。

842列車 大畑 71年10月9日


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1968年(昭和43年)10月改正の大畑駅時刻表。何とも味がある。

撮影したのが71年10月だから、この時刻表が蒸機運転列車の最終版になったようだ。

大畑 71年10月13日


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夕暮れ。

大畑 71年3月4日


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夕暮れに構内で見つけた旧レイル。「八幡製鉄所」のマーク。「NO 60 A」は60ポンド=27Kgということだろうか。そして「1907」は言わずもがな1907年製造だ。

なんと、開通以前に製造され敷設されたレイルがこの時まで生き残っていたのだ。1905年に終わった日露戦争の後の「官営八幡製鉄所」の作品だが、今でも残っているのだろうか?

 

大畑 71年3月4日


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駅を外れて奥に進むと…  線路は途絶えて、その先には遠く湯前盆地が、そして、秋の空が拡がっていた。

大畑 71年10月13日


以上が「Jトレイン」Vol.06(2002年6月刊)に掲載したものに大幅に手を加えて、写真も追加しました

肥薩線矢岳越え・大畑 ......完   2015年11月24日

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