肥薩"山線"には格別の想い出が有る。 急勾配、急カーブ、トンネル、展望の良い景色、大きな輸送量、スイッチバックそしてループ線。鉄道写真を撮るための魅力的な要素がこれほど凝縮された所は他にはあまり無かったと思う。
かつての北海道狩勝旧線も素晴らしかった。残念なことに最後の冬に二日間ほどちらりと見ただけで終わってしまった彼の地が忘れられず、同じ「日本三大車窓展望」と言われた「矢岳越え」を初めて訪れたのは翌67年3月のことだ。慌ただしい日程の中での一日だけだったが、予想に違わぬスケールの大きな風景と極限に近いと思わせるような蒸機運転にすっかり魅了されてしまった。
その後何度も通うことになり、大畑と真幸に三、四日ずつ、いつも一週間ぐらいは滞在していた。しかし何度行っても次々に新しいアングルが見つかり、また思わぬ気象条件に出会ったりでいつまでたっても終わりはなく、それだけ、のめり込み愉しい撮影地だった。 しかし、写真に撮るには素晴らしいのだが実際の運転、保守はそれはそれは大変だったはずだ。最急勾配30.3‰、300Rのカーブ、牽引定数25車、重装備のD51二両で500トンの列車を押し上げる。今と違って貨物輸送の主役がまだ鉄道だった時代、ほとんどの列車が定数一杯持たされていたはずで、調子の良いカマ悪いカマ、それぞれに職人たちが苦労しながら操っていた。
実は僕も何度かキャブに添乗させてもらったのだが、この職場の凄まじさは言葉では言い尽くせない。現在だったらば到底許されないレベルの"劣悪な"環境だと思う。しかし誤解を恐れずに言えば、これほど面白いものはなく、工夫と経験で乗り切ってゆく職人にただただ頭が下がるばかり、薄っぺらな知識や小手先の技術など吹っ飛んでしまう。
これは多分、鉄道の世界だけでなく近代日本の工業技術と言うか物事を動かしてきた世界が、無駄なことをする人間がいたり、ひたすら機械を磨いている人間がいたりする大きなピラミッドがあって、その上部にある部分を支え運営されてきたということではないだろうか。僕がキャブの中で見たのはそんな幅広い裾野があって、まるで綱渡りのような危なっかしいことを毎日平気でやっていた人たちの仕事だったのだと思う。
合理化が叫ばれ人減らしをしなければならない今の時代、ピラミッドは中空となり切れ味の良い技を支える術は無くなり、綱渡り自体が許されなくなってしまった。
この当時の僕の撮影スタイルは基本的に「駅寝」。終列車の後、待合室に寝袋を広げて夜明かしをするというもの、厳密に言えば許されないはずだが、ある節度を守ることで黙認してもらった。 眠れぬ夜を過ごすこともあり、早朝の天気が気になるあの緊張感は忘れられない。朝は、始発の随分前に起きて撮影地に、お陰で朝一番の誰も見たこともないような景色の中を行く列車を何度か撮ることができた。
一日歩き回り疲れて駅に戻ると夕方の列車で人吉へ下りる。駅近くの銭湯で汗を流し、スーパーで翌日の食料の買い出し。マーガリンを持ち歩いているので食パンと魚肉ソーセージのメインディッシュ、甘夏柑のデザートも付く豪華な朝、昼食の用意だ。
駅前食堂で「チャンポンとおにぎり、お湯割り球磨焼酎を一杯」頼んで優雅な夕げを楽しむと矢岳に上がる最終列車の発車時間も迫ってくる。いつものなじみの顔触れの客車に乗るか、たまにキャブに添乗して大畑か真幸に戻る、と言う一日だった。
満足な機材も金もなく苦しかったが、どうしたら良い写真が撮れるか悩みながら毎日がとてつもなく愉しかった。 お世話になったり、写真を渡したり、素晴らしかったのは蒸機と景色ばかりでなく、見守ってくれた優しい人たちと良い関係を作りながら撮影していた日々……。
1972年3月、ここから蒸機の煙が消えた春、僕は大学を出て職業カメラマンになることにした。独学で覚え、趣味で撮っていただけの写真で無謀にも飯を食ってみようと決意をしたのだ。
あれから三十年、あの時を思い出してみると、何か夢を見ていたような気もする。