『冬こそ北海道!』 『冬の三白』、僕らが翌北海道に撮影に行った1970年頃の冬の北海道観光のキャッチフレーズだ。今のように気軽に飛行機でさっと行けるわけではなく、寒い冬の時期にわざわざ観光で行ってみようという奇特な客も少ない頃の話だ。
「冬こそ!」というのはいささか苦しまぎれの感もあり、いわゆる物見遊山の一般観光客を呼び込むには随分と大胆な提案だと思った。しかし、観光客の嗜好も「珍しいものを求めて」に変わりつつあったときで、意外と好意的に受け止められ、青函連絡船に乗って海を渡り、氷点下何十度という極寒の地を目指す旅人があっという間に増えていった。ぼくの知る数年の間でも冬期間の乗客が増え、列車の混み具合が随分と変わっていったことを覚えている。
『冬の三白』 とは丹頂、白鳥、流氷を指している。まさに珍しいものだ。特に流氷は不思議なものだった。 「流氷」という名前から海の上にぷかりぷかりと氷が浮いて漂っているものと思っていたらば、なんと海面を埋め尽くす氷の原ではないか。話には聞いてもなかなか想像が難しく、現物を最初に見たときには感動したものだ。内地から(北海道では本州をこう呼ぶのだが、九州あたりで呼ぶ「本土」という言葉と比べて「内地」のほうがスケールが大きく感じられて好きな言葉だ)視察に来た代議士が流氷原を見て「こんなに広い土地を無駄に遊ばせておくのはけしからん!」と言ったいう話があるが、全くのチャランケ(うそ話)ではなく、有りそうなことだ。
2月から3月にかけて運が良ければ、網走から斜里の間のオホーツク海で出会うことが出来る。
風や海、氷の状態によって異なるが、押し寄せた氷の上に乗って沖合まで歩いて行くことも出来る。3月半ばを過ぎて気温が上がる時期になると一部氷が薄くなり、ズボリと海に落ちる事故もあり、南風が強いと風に乗って氷が離岸して戻れなくなることもあるそうだ。僕らも北浜の駅長さんに「気をつけなさいよ」といわれながら、しばし海上散歩を楽しんだものだ。厳冬期で氷の厚さは大丈夫。風もなく安全だというのを確認していたが、歩いて行く足下ではなく思わぬ遠くでミシッと音がしてひやりとさせられる。
氷の上で汽車を待っているのだが天気が良いと太陽の光線が強くぽかぽかと暖かい。連日の強行軍の疲れで居眠りをしてしまう。
青く透き通った氷をかじってみるとわずかに塩辛い、凍った水分の間に塩が閉じ込められているようだ。
他の二白、白鳥は近くの濤沸湖に数多くやって来る。シベリアからの渡り鳥で冬季間だけ北日本に来るのだがこの北海道よりも寒いシベリアとは一体どんなところだろう、と思った。ガアガアとうるさいほど、餌付け模され、よくなれていて近づいて写真も容易に撮れる。次の写真の右上に小さくシルエットで登場いただいているので見て欲しい。
丹頂を見るのはもう少し難しい。弟子屈から南の釧路湿原に行かなければならない。こちらは留鳥、冬季以外は湿原の奥で生活し、餌が乏しくなる冬季に人里に出て来るようだ。以前に比べて最近は数も増えて姿を見る機会は多くなったが、写真撮影では長い望遠レンズがないと難しい。
楽に撮れるのは大々的に餌付けしているその名も鶴居村の雪裡だろうか、地元の人が「丹頂牧場」と呼んでいるのが可笑しい。
当時、冬の北海道旅行の宿は駅の待合室で寝袋が主だった。最初は夜行列車で寝泊まりしていたのだがスケジュールに制約されること、何よりも十分に眠れないことであきらめた。夜間の待合室はもちろん暖房は止められ明け方は外気とほぼ同じ、零下10℃を下回り20℃ぐらいになることも珍しくはなかった。着られるものは全て、オーバーコートまで着込んで冬用の寝袋に潜り込む。快適なはずはなく連日の疲れで眠ってしまうというわけだが、明け方の寒さで目が覚めることもしばしば、後はひたすら耐えるだけ。若いとは言えよく身体が持ったものだ。
夜間の待合室の利用は基本的には許されない、しかし多くの場合礼を尽くせば認めていただけた。ぼくなりに、最終列車が出てから寝る、始発の前には起きて片付けるという規範をを守ることにした。それでも断られ、文字どおり路頭に迷ったことも何度かある。
苦しい思いの寝袋作戦、第一の理由は経済的な理由だが、朝起きたそこが撮影現場ということも大きな魅力だ。普段なかなか見られぬ明け方の美しいシーンに出会えるのは、辛さが報われるときだ。
今回の二枚目の写真も、前夜常紋信号場から移動してきて最終列車で浜小清水駅に着いたときのもの。待合室の木のベンチの上に寝袋を広げて一夜の夢を結ぶのだが、やはり明け方は寒くて目が覚める。明るくなり身支度をして外に出て一番列車を待ったものだ。晴れ上がり-20℃近くになったと思う。それでも太陽が出て陽が差し始めたときの暖かさ、太陽とは本当にありがたいものだと感じた気持ちは今でも忘れられない。
たまにゆっくりできるのはユースホステルに泊まったとき。この釧網本線沿線では北浜と浜小清水に民営と直営があって、それぞれ条件が違ったがよく利用させていただいた。北浜の民営ユースではご飯が食べ放題、仲間と一緒に泊まるとおひつがすぐに空になる、何度かお代わりをしておかずがなくなると醤油をかけてご飯を食べる。
いろいろと随分無茶なことをやったが、若いからできたこと、それと同時に社会の寛容度が大きかったように思う。誰もが同じように貧しかった時代、お互いにずっと優しい社会だったように思うのだがどうだろうか。「勝ち組」「負け組」というような言葉に象徴される競争社会となった現代、規則にがんじがらめになって、金も地位もない若者が自由に暮らそうとすると結構大変ではないかと心配になる。