笹川流れ
新潟県北部、山形県境に近い日本海岸は朝日連峰から連なる山々が海岸まで迫り、独特の景観を形作っている。中でも、羽越本線・桑川〜今川信号場付近は「笹川流れ」と呼ばれる奇岩怪石が続いている。
川でもないのに「流れ」とは不思議だが、岩間を走る潮流があたかも「流れ」のようだ、ということで付けられた名称のようだ。笹川とは桑川〜今川信号場のほぼ中間にある集落の名前で、あの母親を背負った銅像で有名な人物とはなんの関係もない。(笹川良一をご存じの方も少なくなったかもしれません)
1927(昭和2)年には名勝天然記念物に指定されたというから古くから有名な観光地だったようだ。
日本海沿いに走ってきた主要国道7号線は、この厳しい地形の区間は内陸を走ることになるが、嬉しいことに鉄道は海岸沿いに建設された。きっと内陸に入るためには山登りの勾配が問題になったのだろう。長大トンネルなど考えようもなかった時代、困難な土木工事でようやく難関複雑な地形を切り開いたのだろう。
1924(大正13)年7月31日、この県境区間の工事を最後に羽越本線は開通し、関西と青森を結ぶ「裏縦貫幹線」も全通した。
ぼくが初めて訪ねたのは67年春。短いトンネルとカーブの連続する単線の頼りなさそうな線路ではあったが輸送量は多く、次々と長大貨物、旅客列車がやって来た。単線とは言え関西と東北、北海道を結ぶ重要な裏縦貫幹線だったから、まだ輸送の主役を担っていた貨物列車は定数一杯の千トンを運んでいたことだろう。数少ない優等旅客列車は全て荷物車、郵便車を連結した十数両の長い編成、まさに「列車」であったが、残念ながら牽引機は蒸機ではなくDF50が投入されていて、ドロドロドロ…と電気式ディーゼル特有の音を響かせて通り過ぎていった。各停列車も一部のDC区間列車を除き、全て蒸機牽引の堂々たる「列車」であった。貨客それぞれD51、C57が分担し、機種としての珍しさはなかったが、列車本数の多さが魅力的なところだった。
今ネガを見直してみると、ディーゼル特急も含めて優等列車の写真がほとんどない。フィルムがもったいないこともあっただろうが、こうすっぱりと切り捨ててしまった潔さ、というか単純さには我がことながらあきれてしまう。柔軟に考えてもう少し撮っておけば良かった、と思うのも30いくつか歳をとって知恵がついたお陰だろうか。まぁ例のごとく、反省するのはいつも遅すぎる。