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今川信号場 D51 1971年11月13日

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美しきパシフィック!

今川信号場 C571 1972年3月10日

笹川流れ

 新潟県北部、山形県境に近い日本海岸は朝日連峰から連なる山々が海岸まで迫り、独特の景観を形作っている。中でも、羽越本線・桑川〜今川信号場付近は「笹川流れ」と呼ばれる奇岩怪石が続いている。

 川でもないのに「流れ」とは不思議だが、岩間を走る潮流があたかも「流れ」のようだ、ということで付けられた名称のようだ。笹川とは桑川〜今川信号場のほぼ中間にある集落の名前で、あの母親を背負った銅像で有名な人物とはなんの関係もない。(笹川良一をご存じの方も少なくなったかもしれません)

 1927(昭和2)年には名勝天然記念物に指定されたというから古くから有名な観光地だったようだ。

 

 日本海沿いに走ってきた主要国道7号線は、この厳しい地形の区間は内陸を走ることになるが、嬉しいことに鉄道は海岸沿いに建設された。きっと内陸に入るためには山登りの勾配が問題になったのだろう。長大トンネルなど考えようもなかった時代、困難な土木工事でようやく難関複雑な地形を切り開いたのだろう。

 1924(大正13)年7月31日、この県境区間の工事を最後に羽越本線は開通し、関西と青森を結ぶ「裏縦貫幹線」も全通した。

 

 ぼくが初めて訪ねたのは67年春。短いトンネルとカーブの連続する単線の頼りなさそうな線路ではあったが輸送量は多く、次々と長大貨物、旅客列車がやって来た。単線とは言え関西と東北、北海道を結ぶ重要な裏縦貫幹線だったから、まだ輸送の主役を担っていた貨物列車は定数一杯の千トンを運んでいたことだろう。数少ない優等旅客列車は全て荷物車、郵便車を連結した十数両の長い編成、まさに「列車」であったが、残念ながら牽引機は蒸機ではなくDF50が投入されていて、ドロドロドロ…と電気式ディーゼル特有の音を響かせて通り過ぎていった。各停列車も一部のDC区間列車を除き、全て蒸機牽引の堂々たる「列車」であった。貨客それぞれD51、C57が分担し、機種としての珍しさはなかったが、列車本数の多さが魅力的なところだった。

 今ネガを見直してみると、ディーゼル特急も含めて優等列車の写真がほとんどない。フィルムがもったいないこともあっただろうが、こうすっぱりと切り捨ててしまった潔さ、というか単純さには我がことながらあきれてしまう。柔軟に考えてもう少し撮っておけば良かった、と思うのも30いくつか歳をとって知恵がついたお陰だろうか。まぁ例のごとく、反省するのはいつも遅すぎる。

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初めて日本海を見た

 表日本に住んでいたぼくが、初めて日本海を見たのは1964年春、高校1年から2年になる春休みのときだ。場所は「笹川流れ」ではなく、もう少し北の山形県温海付近だった。

 海沿いを走る羽越本線の列車を撮りたいのだが、撮影地情報もなくどこに行ったらばよいかも分からず、地図を見て海岸沿いを走っているらしき場所で、急行の停まる温海で降りた。 ここを選んだ大きな理由は、前夜の“宿”が急行「羽黒」だったからでもある。

 前夜は酒田で 21:28 の 802列車 に乗り、0:43 に新津で降りる。二時間半ほど待合室で過ごし 3:20 の 801列車 に乗って5:27に温海に到着した。夜行列車を“宿”にしていたので、撮影地の選択肢が限られていたからだ。

 早朝の駅を出て、海の香りのする方向に歩き始める。街並みを抜けると予想どおり、海沿いに線路が伸びていた。天候が悪かったこともあってどんよりとした雲が垂れ込め、緑色がかった海の色に「裏日本」と呼ばれる宿命のようなものを感じた。とても印象的な不思議な体験だった。

 

 次の2枚の写真は「笹川流れ」ではなく、この時に温海付近で撮影したものです。

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線路の隣に伸びる未舗装の道路はなんと「国道7号線」。

「裏日本」の過疎地ではあったが、通行する車両もほとんどなく「一桁国道」がこんな姿だったとは、今から考えてもとても信じられない。

温海 D51431 1964年3月20日

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上のカットとほぼ同じ所を逆から撮影したもの。自家用車など持てるわけでなく、バスも走っていない。公共交通機関は鉄道だけで、駅の間は歩くしかない時代だった。

温海 D51648 1964年3月20日

今川信号場

 大学受験を目の前にした高校3年の冬休み1966年正月明けに羽越本線に来ている。この時も「笹川流れ」は知らなくて鼠ヶ関に行っている。多分、国語で習った「奥の細道」で見つけた地名からここにやって来たのだろう、多少は学校の勉強も役に立ったのかもしれない。

 ただし、朝から嵐のような強い雨と風に見舞われて撮影はほとんどできなかった。早めに切り上げて帰京することにした、多少なりとも受験勉強もしなくてはならないからだ。

 この時の帰りに見つけたのが今川信号場付近の景勝地だった。

 予想どおり一年浪人して、翌1967年の春、ほぼ大学が決まって旅をしたのがここ今川信号場だ。

 当時は今川信号場〜桑川間、ちょうど「笹川流れ」の区間は車道がなく (主要国道7号線は山間部を通っている) 人の背丈ほどの素掘りのトンネルと人道だけが結んでいた。狭い土地に寄り添うように建つ家々、厳しい気候と環境の中で慎ましく暮らす人々の姿を目の当たりにして能天気だったぼくの脳みそも少なからず衝撃を受けた。

 

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複雑な思いで帰京途中見つけた今川信号場付近の景勝地。雨の中のすれ違いのカットが一枚残っている。

今川信号場 C57180 828レ、 D511002 1966年1月5日

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67年春の初訪問。トンネルポータの上から撮影、下り列車の撮影定位置の一つとなる。

この旅の前に広角レンズ35mmを手に入れて、うれしがって撮った一カット。

今川信号場 C57179 833レ 1967年3月16日

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穏やかな天候の中、桑川までのんびりと歩いて行く。列車は次々とやって来る。

今川信号場 D51 1967年3月16日

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漁に出かけるのだろうか船が漕ぎ出される。動力船ではなく手こぎ船のようだ、10名ほど乗り込んでいるが、どのような漁をしていたのだろうか。

桑川 D51 1967年3月16日

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桑川から1821列車で今川に戻り、2002Dのすれ違いを撮る。

この1821列車は前夜 22:03 に上野を発ち、ここ今川が 10:28 。16:00 に終着秋田に到着する長距離各停列車だった。

今川信号場 キハ82 2002D「白鳥」、 C5784 1821レ 1967年3月16日

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長い停車時間の後で盛大にドレインを切って発車していく1821列車。

今川信号場 C5784 1821レ 1967年3月16日

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青森 01:07 発 大阪行き荷物専用列車 2048レ。今川信号場では大阪発青森行きの急行「日本海」501レとすれ違い 11:01に発車する 。終着大阪には翌朝の 06:19 に到着する。

501レは 1062.3km(白新線、新潟経由) を22時間7分、2048レは 1045.8km(新津経由)を29時間12分かけて走っていた。

今川信号場 C5781 2048レ 1967年3月16日

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2048レ に続いてやって来る 832レ も各停列車の中では荷物車の割合の多い列車だった。この時は機関車の後ろに荷物車二両だったが、1967年10月ダイヤ改正後は郵便車一、荷物車三を連結していた。

長距離トラック輸送などほとんどなかった時代 、宅配便もなかった時代、鉄道だけが小荷物輸送の主役を担っていた。

今川信号場 C57108 832レ 1967年3月16日

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この日は天候にも恵まれて楽しく撮影をすることができた。午後の日本海、春の海をバックに軽快に列車は走る。

今川信号場 C57 839レ 1967年3月16日

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千トン輸送の貨物列車の編成は長い。

右手に見える木組みは収穫した稲わらを干す「はざ」。元はと言えばトネリコやハンノキに水平に支柱を渡した「稲架木・はざぎ」が原形で新潟地方独特の姿だ。

手前の砂利道もここは立派な道路だが、この先の砂浜が岬に突き当たるところで消失していた。その先は細い人道が桑川まで続くだけ。

自動車が通れる車道は、北側の勝木、寒川から頼りない細い道がこの今川まで伸びていただけだった。

今川信号場 C57 839レ 1967年3月16日

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平坦線なので定期での重連仕業はない。時折回送で重連になることはあったが、間の悪いことに正面から狙っていることが多くちゃんと撮れているためしがない。

今川信号場 D511133+C57 822レ 1967年3月16日

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前カットの振り返り。半逆光がボディーを照らしてくれた。

今川信号場 D511133+C57 822レ 1967年3月16日

再訪

 二度目に行ったのは同じ年の12月24、25日。年の瀬の一晩を今川の民宿に泊まり、二日間撮影している。雪景色を見たくて行ったのだが、海から吹き付ける季節風が激しく撮影には苦労した思い出がある。

 

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下り列車の定位置での撮影。

今川信号場 C5724 833レ 1967年12月24日

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今川信号場 D51396 1967年12月24日

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D51とC57ばかり。本数が多いので油断してしまったが、もう少し真面目に撮っておけばよかった。

今川信号場 C5719 1967年12月24日

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ここが笹川の集落だったと思う。

今川信号場〜桑川 D51 1967年12月24日

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寄せる波は荒く、吹き付ける季節風はきつい。

今川信号場 D51 1967年12月24日

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旅客、荷物列車はほとんどC57牽引だったが、時折D51が牽いてくることもあった。この上野〜秋田間の長距離各停列車もこの時はD51牽引となっている。

見れば10両以上の客車を牽いていて、年末繁忙期の増結車両対策だったのだろうか。

今川信号場 D51 1821レ 1967年12月24日

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少しは収まったがまだ季節風が吹いている。

道路を走っているのはマツダキャロルだろうか。桑川との間にある板貝か笹川の集落の人が勝木方面から乗ってきたのだろう。この先で路肩の駐車場に車を停めて、しばし歩いていかねばならない。

今川信号場 C57 832レ 1967年12月25日

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「山羊と煙と何とか…」の例えの通りぼくは高いところが好きだ。海岸に突き出た岩山に上って撮影した。

今川信号場 D51 1967年12月25日

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こちらは板貝の集落だろうか。

今川信号場〜桑川 C57 834レ 1967年12月25日

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山の上から見た今川の集落。

今川信号場 C57 839レ 1967年12月25日

最後の訪問

 その後68年12月、71年11月にも撮影に行っている。

 初めての訪問から五年後、最後の今川信号場行きは1972年春、普通より一年余分に在籍した大学を卒業したときだった。1964年に温海に行ったときから考えれば足かけ9年間、ここ羽越本線に通ったわけだ。

 ほとんど交通量のない国道7号線。人道しか通じてなかった笹川流れだったが、この72年には車道がようやく開通していて、流れゆく時間を噛み締めた。

 

 都会育ちのぼくが地方を旅して教えられたことは数限りない。授業をさぼり親に無理を言って出かけた旅。知らない土地で知らない人に会って教えてもらったことはかけがえのない財産として残っていった。学校にはあまり真面目に行っていなかっただけに「旅はぼくの学校だった」と言ってもよいかもしれない。

 

 卒業はしたものの就職は決まらず、フリーで写真撮影を仕事にして「旅」を続けるか…と迷っていた。

 幸い、力を貸してくれる人たちと出会い、今でも写真撮影を仕事に何とか生活をしている。車の中に寝泊まりしたりとやっていることは学生時代とあまり変わらず、自分でも可笑しくなる。

 「旅の学校」はまだ当分卒業できそうにない。

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1972年3月に見た車道トンネル。車が通れる広さと高さが確保されてはいるが、素掘りのこんな物だった。

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沈む夕日。

今川信号場 D51 1968年12月19日

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遠くに粟島が見える。

今川信号場 D51 1971年11月13日

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翌年1972年10月完成の電化工事が始まっていて、この時は撮影できるところは限られてしまった。

今川信号場 D51610 1971年11月13日

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夕日撮影の定位置から。このようなレンジの広い画像を作れるのはデジタル技術によるところが大きい。

今川信号場 D51 1971年11月13日

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最後の訪問時には、電化ポールが立ち始めて撮影できるところはますます限られてしまい、こんな流し撮りばかりやっていた。これは広角24mmで流したもの、面白い効果が出ている。

今川信号場 D511110 1972年3月10日

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上のカットと同じ列車。これにて「日本海縦貫線撮影終了」 の図。

今川信号場 1972年3月10日

以上が「Jトレイン」Vol.15(2004年6月刊)に掲載したものに大幅に手を加えて、写真も多数追加しました

 

 

 

 

C571  C57180  D51498

 拙サイトとリンクさせていただいている「駅舎の灯」の こあらまさん から、応援いただくお言葉と 、「ばんえつ物語のC57180はこんな場所で働いていたのです。一生を新潟で過ごした罐です。遠くの山口線で活躍するC571号機。それとD51498も。ある時期、この3両は新津の同僚機でした」 とのご指摘をいただきました。

 

 そうなんですよね、ぼくも何度か撮影することができました。もちろん当時はこんなことになるとは夢にも思っていませんから、最近になってネガをひっくり返して“発見”した次第です。

 C57180についてはまた別の思いでもあって、少し追加の掲載をさせていただきます。

 こあらまさん ありがとうございました。

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回送だと思いますが、D51498が本務機の前に連結されていました。本務のC57を見ると、残念ながらナンバーは読めないのですが3次形であることが分かります。

当時新津機関区にはC573次形が多く配置されていましたから 、確実なことは言えませんが D51498+C57180 だった可能性もあります。

こんなことになると分かっていれば…? もっとちゃんと撮っていたのに…

平木田 D51498+C57 2822レ 1967年3月15日

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こちらは正真正銘の C57180 、雨の鼠ヶ関で撮影。この後、この列車に乗って村上へ、東京へと帰ってきました。今回の6枚目のカットはその旅の途中です。

鼠ヶ関 C57180 828レ 1966年1月5日

C57180

 ぼくの 「泊まりがけ撮影大旅行」 の最初は高校一年、16歳の冬だった。1963年12月、東京〜郡山〜新津〜東京のルートで、磐越西線・中山宿でD50を撮り、新津で数少なくなったC51を撮るのが目的だった。

 その途中で会津若松から白崎(現在の・三川)まで、C57180に牽引された221レに乗っている。二時間半ほどの行程だったが、対向列車待ちで停車するたびに前に行き撮影をしていた。

 何しろ初めての長旅、期待と不安が入り交じった複雑な思いを抱きながら。

 

 それからちょうど50年後の2013年11月にこの地を訪れ、このC57180に再会した。

 “復活”したのは聞いていたが、撮影に行こうと思ったのはこの時が最初だ。

 初めての旅で見たカマということもあったが、このカマの誕生が1946年で、実はぼくの一つ歳上なのだ。

 「16,7のときに出会い、久しぶりに会ったらば今お互いに、66、7歳」……  なんだかジーンとくる設定ではないか。 多少の厚化粧ではあるが「彼女」は美しく着飾っている。それに比べてわが身は… いや、止めておこう、元気でいられただけでもありがたいことだ。

 

 この時の目的は「夜汽車」の撮影。定期運転最終の11月23、24日の2日間、後半暗くなったところを撮影しようという試みだ。外部照明のない所での撮影なのでなかなか大変、それでも昨今のデジタル技術のお陰で何とかなったと思う。

 元はカラーなのだが、ここではモノクロにしてお見せしよう。

 

 そう、お互いに元気でいような。

 

 

 

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日出谷で対向列車を待つ。右隣は498ではなく238だ。

機関車の正面に杭はあるし、ひどいもんだが… 16歳と17歳の最初の出会いだ。

日出谷 C57180 221レ、D51238 1963年12月22日

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上のカットから50年経ち、66歳が列車最後部の窓から67歳の「彼女」を撮る。

日出谷を出て鉄橋を渡り、右カーブの有名撮影地。給水温め器の排気が列車全体を包む。

日出谷 C57180 8233レ 2013年11月24日

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並行する道路を走る車のヘッドライトが当たり、カマが浮かび上がった。全くの偶然、一瞬の幻想的な出来事だった。

咲花〜馬下 C57180 8233レ 2013年11月24日

羽越本線・笹川流れ ......完   2015年8月28日

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