大木茂写真集 汽罐車 よみがえる鉄路の記憶 1963-72  から


桜の鹿児島、流氷の網走…。1963-72年、全国に蒸気機関車を追いかけた青春の残照記録、
今よみがえる「昭和の原風景」。俳優・香川照之氏も絶賛「この写真、匂うか、匂うだろ。」



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熊本県 肥薩線 大畑 1969329
ループ線の途中にスイッチバック構造の大畑駅。ここもまたレイアウト模型のような情景だ。門司港発都城行きの夜行各停1121列車が横平トンネルを抜けて駅に進入する。D51一両で牽引係数は確か25車。マニが2両連結されているが、この日のように後部には軽量客車ナハ10系が3両なので21.5車、かなり余裕があるはずだ。


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福島県 会津線 上三寄 1972418
南東北の桜を撮影しようと4月半ばに会津線に行ってみた。湯野上の桜は見頃なのだが天候が今一つ、曇り空バックの桜ではちょっとがっかりだ。途中で立ち寄った上三寄駅で汽車通学のこどもたちに出会った。女の子は小学校の、男の子は幼稚園の新入生だろうか。下り列車を待っていたから隣駅桑原に帰るところだったのだろう。しかし、その桑原の集落も今は大川ダムの水底に沈んでしまっている。
あれから39年… 背後に見える桜の木もきっと大きくなっているに違いない。



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長野県 小海線 野辺山 1971828

夏の終わりになると、野辺山周辺の農家は高原野菜の収穫で忙しくなる。キャベツ、白菜などだったが、平地に比べて出荷時期が早いのがこちらの強みだ。トラック輸送も始まっていたが、鉄道も大活躍。七尾機関区から同じC56を借り入れて臨時貨物列車を増発していた。高原は一日中、C56の乾いたブラストで賑やかだった。


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宮崎県 肥薩線 真幸 19711216

「日本三大車窓展望」の一つ、真幸〜矢岳間の展望。真幸から勾配を上り、長い矢岳第一トンネルに突入する直前の1kmちょっとの区間がハイライト。伐採された跡の斜面からこの風景をバックに列車が撮れるところを発見した。北から南を見るようになるので条件は悪いが、むしろ朝の逆光のシルエット列車狙い、しかも秋?冬期が良いのではないか判断した。何度かトライしたが、ようやく納得できたのはある年の12月の撮影行のことだった。


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福島県 只見線 会津坂下 19729

会津若松から只見までで行き止まりだった「会津線」は19718月に、小出〜大白川間の「只見線」に延伸接続して、全線を「只見線」に改名した。翌7210月には、朝夕に残っていたC11による旅客列車の運転を廃止し、気動車化が完了した。この写真は廃止直前の客車列車の姿、いつもと変らぬさりげない日常生活が伝わってくる。



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山形県 米坂線 手ノ子 19711120
東北地方南部の紅葉は10月下旬が見ごろで多くの撮影者を集めていた。しかし坂町機関区の所属する新潟鉄道局管内の機関車は4月から10月末まで、あの美しからぬ”火の粉止め”を付けている。そのため僕はいつも米坂線詣では11月に入ってからと決めていた。もちろん紅葉も良いのだが、葉が落ちた後の、人気の無くなった凛とした晩秋、初冬の風景も捨て難かった。


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山形県 米坂線 羽前松岡 19711120

一つ前のカットと同じ日の撮影。朝の快晴から曇天になってしまった午後。松岡駅はずれの踏み切りで発車を待っていると元気そうな小学生達の声が聞こえてきた。隣駅小国の小学校までの汽車通学なのだろう。機関士や車掌と挨拶を交わし楽しげに帰宅する子供たち。一方運転室の中の助手さんは大変だ。目の前の登り勾配をひかえてボイラー水を一杯に持ち、蒸気圧を上げなければと投炭に忙しい。



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宮崎県 日豊本線 田野 19711215

初冬の冷え込んだ朝、単機回送のC57が発車する。目の前はすぐに下り勾配、軽く開けた加減弁から白煙が立ちのぼる。




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広島県 呉線 小屋浦 19673
時は春、朝の小屋浦は寝台急行列車「音戸」から始まるがまだ暗くて撮影はできない。6時40分ごろ通過の急行「ななうら」は明るくなるのだが、通過列車で面白くない。そう、この駅の魅力は長い列車牽き出す各停列車にあるのだ。6時51分から811分までの1時間21分間に5本の列車が広、呉方面から広島に向かって次々とやって来る。しかも、1本だけD51なのだが、あとの4本はC59C62牽引で12両以上の長大編成を力いっぱい牽き出す姿は感動的であった。


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大分県 久大本線 豊後中村 1968327

「豊後中村は良いよ」と撮影仲間のH氏に連れていかれた。駅を降りて静かな山村のたたずまいを抜けると背の高い遠方信号機があった。初めてのカットは勾配を駆け降りてくるD60


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新潟県 羽越本線 今川信号場 19671225日

蒸気機関車を追いかけた旅から学ばせてもらったことは数多い。自分が住んでいた都市部とは全く違った生活がさまざま有ることを実感できたのは、なによりの収穫だったと思う。ここ今川も当時の僕には想像できないような土地だった。初めて訪れた1967年春は車道も通じてなく、素掘りのトンネルが海岸沿いに続く人道だけが通っていた。12月の暮れに訪ねた時は季節風に激しく包まれてひっそりと慎ましく暮す人々の生活を見た。もちろん、時は経済成長期真っ只中、数年にして幅広い道路が開通し都会の”便利さ”もやって来たのだが、なにかを失っていく姿も同時に見えたように思えた。


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山形県 米坂線 羽前沼沢 1972128

米坂線の9600全廃を3月にひかえて列車に乗りに行った。3日間、米沢と坂町間を数往復して撮影をしてみた。駅員さん、乗務員さん、乗客を撮りゆったりと列車旅を楽しんだ時の一光景。2ヶ月後には無くなってしまうとは到底思えないような、しっくりと馴染んだ日常が拡がっていた。


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山形県 米坂線 羽前沼沢 1972128

当時使っていたカメラは、66版二眼レフのマミヤCシリーズと35mm一眼レフなのだが、もう一台、レンズシャッターの35mm機、オリンパス35SPこれにトライ Xを入れて、増感することを前提で夜間撮影用に使っていた。もちろん35mm一眼レフにもう一台予備のボディがあれば問題無いのだが、そんな贅沢もできず、そこそこの値段のレンズシャッター機を導入したわけだ。やや広角気味の標準レンズ、45mm F1.7のズイコーレンズは良い仕事をしてくれた。


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山形県 米坂線 小国 1972128

当時は小さな駅でも駅弁が売られていた。それぞれは慎ましい小さな商売ではあったが、たくさんの人々が一生懸命働いていた。窓が開かなくなり、停車時間も短くなり、何よりも人件費が上がってしまい、のんびりゆったりとした生活は消えていった。


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山梨県 小海線 小淵沢 19722月4

小淵沢。現在ならば東京の西、高井戸インターから中央高速を”飛んで”行けば一時間ちょっとで着いてしまうのだが、当時はなかなか大変だった。基本的には、新宿2355分発の長野行き各停425列車に乗って453分に到着。日の出を待って大築堤まで歩き朝の貨物列車を撮影したものだ。この時は、高速道路なぞなかった時代、友人H氏の運転で曲がりくねった20号線を走り抜けて明け方に現地に到着した。期待通りの快晴、十分すぎるほどにでき上がった舞台に.小気味よい乾いたブラストと共にC56が登場した。


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北海道 石北本線 常紋信号場 1969221

信号場の金華側の上り勾配区間、サミットまでもう200mもなく、あと一息。機関車が調子良く荷も少なければ軽々と上ってくるのだが、時として大変な苦労をしながら運転しているのに出会うことがあった。この時も、普段ならばもう仕事はほぼ終わっているはずなのだが、助士はまだ懸命の投炭に追われ、列車は歩むがごとくの速度で進んでいる。荷が重すぎたのか、機関車の調子が悪かったのか… それにしても、過酷な労働があたりまえだった時代、現代の常識では考えられない労働状況で働いていた人たちが多かったことを記憶しておきたい。

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