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 「御殿場線」は東海道線の「国府津」と「沼津」を結ぶ 60.2km の線区です。 現在はJR東海に属しているローカル線ですが、かつては「東海道本線」そのものでした。

 旧東海道は箱根峠(846m)を越えていましたが、鉄道では狭隘で急峻な箱根を越えるのは無理なので、 東海道本線は1889(明治22)年に御殿場(456m)を通るルートで建設されました。

 山北から御殿場までは「鮎沢川」沿いの谷間を、御殿場からは伸びやかな富士の裾野を走る風光明媚な線区です。 しかし、それぞれ最急勾配25‰で上り下りしなければならず、複数の汽罐車が必要な”難所”でした。

 長大トンネルを掘る技術が確立すると、1934(昭和9)年に熱海~函南間に7.8km の「丹那トンネル」が完成し本線はそちらに移ります。 「御殿場線」と名付けられ、のんびりとしたローカル線になったのです。

 蒸気機関車が走っていた時代、この線区の特徴は「D52」という国鉄最大級の貨物用機関車が走っていたことです。 本線用に重厚に作られた線路ですから、重量の重い大型機関車が入れたのでそれを活用していたのです。 蒸気機関車好きにとっては、首都圏の近くで大型蒸機が見られるところなので人気がありました。

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山

 上のカットを撮った時の様子を、拙Web Site「モノクロームの残照」から一部を引用してみます。

 

 学校の勉強をそっちのけにして、時刻表を参照して方眼紙にダイヤグラムを描いてみたり、 時刻表を暗記するくらい眺めながら綿密なスケジュールを立ててみる、そんなときが一番楽しい時間だった。

 撮影地は駿河小山~谷峨に決めた。始発電車で家を出ても蒸機列車が集中する朝の時間帯には間に合わない。 そこでいささか無謀ではあったが夜行列車で東京を発つことにした。 夜の東京駅は関西、九州方面への優等列車が続々と西下する。そのしんがりが23時30分発、大阪行き各停145列車だ。 これに乗って沼津に1時48分に到着。しばし待合室で過ごし、御殿場線始発の4時40分の列車を待つ。 ダブルエンジンのけたたましいキハ51の長編成列車に乗って、御殿場で乗り換えて駿河小山に到着したのは夜明け前の5時45分だった。

 こうすれば朝早くから効率よく撮影ができる、と思って立てたプランだが、いくら若かったとはいえ随分と無茶をしたものだ。 我が家を出てから駿河小山まで8~9時間はかかっていただろう。今ならば、車を使えば一時間もかからない所なのだが…… 50年ほど前の、東海道新幹線も、東名高速も完成する前の話だ。

 

 今回は4:45に家を出て東名高速に乗ったのが5:00ちょうど。大井松田で降りてR246を走り駿河小山に着いたのは6:00ちょうどでした。

 二枚の写真を比べて、52年振りですがこの方向を見てもほとんど変わっていません。 一番大きな違いは、この駿河小山駅が以前は駅員数も多い大きな駅でしたが、今では一人もいない無人駅になっています。 また、以前は構内どこで撮影しても全く問題なかったのですが、今では非常にうるさくなり基本的にはホームから下には降りられません。 下のカットは、列車が来る前に”こっそりと”撮ったものです。

 

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山

 上のカットは前のシーンの駅進入を撮り、急いでホームを走り抜けて出発を撮ったものです。 駅周辺の変わりようが分かります。

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山

列車が発車して振り返って撮影。まだ鉄道撮影には慣れていなかったのでしょう、手前にド〜ンと電柱を入れてしまいました。

現代は、もちろん狙いで入れています。朝焼けの富士山が見えました。

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山

上は、沼津始発の列車が 6:50 駿河小山に到着しました。小山の工場で働く人々が降り、小田原方面に通う通勤客が乗り込みます。

下は、ほぼ同じ時間帯ですが列車の編成も短く、乗降客の姿もありません。

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山〜谷峨

駿河小山駅から谷峨方面に歩き始めました。 ここは駿河小山駅の構内外れ付近。線路脇の鉄道用地ぎりぎりに立ち、どきどきしながら撮影です。鉄道用地内に少しでも入ると警笛を鳴らされる、いやな世の中になってしまいましたな。

変わっているようであまり変わっていません。

家々が新増築されていて、住んでいる家族にどのような変化があったのでしょうか。

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山〜谷峨

よく見ていただくとお分かりのように、東海道本線時代の複線の跡が残っています。

上の写真では列車の右側にレイルをはがした道床が、下の写真ではその道床跡を利用してレイルを引き直し新たに利用している様子が見てとれます。従来の線路は放棄されています。

なぜそんな面倒なことをやるのか?疑問でしょうが、左後方に見える二つのトンネルがその答えを与えてくれます。

電化工事を進める場合に、架線を敷かなければなりませんが多くのトンネルは断面が小さくて上方に拡張しなければなりません。列車を走らせながらの工事は簡単ではありませんので、従来使われていなかったトンネルを再利用するという方法をとるのです。

左に新しい道路ができ、右手には電気を供給する変電所ができていたり変化はありますが、本線時代の石垣がしっかり残っているのはなんだか嬉しくなります。

 

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1964年2月21日
2016年3月3日

駿河小山〜谷峨

 大分移動して、「第三鮎沢川橋梁」です。 上のカットを見ていただけるとお分かりですが、ぼくが立っているところは東海道本線時代に使われた複線のもう一本の築堤の上です。 本線時代は複線でしたが、御殿場線になり半分のレイルは引きはがされて単線になっています。 以前は何も無い静かな山間の谷間でしたが、今では近くに東名高速が走り工業団地ができ… 全く変わっていました。 52年前と同じポイントは建物ができていて立つことができません。

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1964年2月21日
2016年3月3日

谷峨

 谷峨駅です。 以前は線路端に降りて撮影できたのですが、今は叶いません。 おとなしくホームの上で撮りました。

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1964年2月21日
2016年3月3日

谷峨

 同じく谷峨駅です。

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1964年2月21日
2016年3月3日

谷峨

発車の後振り返ると… 今では頭上に「東名高速」の巨大橋梁が架かっています。

静かだった谷間に一日中車の走行音が絶えません。

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1964年2月21日
2016年3月3日

谷峨

今では、猫も杓子も…ではありませんが誰でも手軽に“写真”を撮ることができるようになりました。何しろ大きなカメラは必要なく、ポケットに入る携帯で“写真”が撮れてしまうのですから恐れ入りますな。

半世紀前は、カメラを持っているということはちょっと特別なことでした。

この日も、谷峨の駅でウロウロしていると「お〜、写真撮ってくれよ」と声がかかりました。仕事帰りの保線区の方だったようで、後日お渡ししています。

もう52年前のことですから、今でもお元気なのか分かりませんが、こうやってモデルになり当時の服装や雰囲気を伝えて下さったことは、今では感謝しています。

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1964年2月21日
2016年3月3日

山北〜谷峨

何も無かった土手に桜並木ができています。52年の歳月とはすごいものですね。

 

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1965年5月5日
2016年3月4日

御殿場〜足柄

高校3年になった5月の連休に再訪しています。
前日の午後に国府津に行き夕方まで機関区で撮影し、19時過ぎの蒸機牽引列車で御殿場まで来ました。
この時はD52に添乗させていただき。、御殿場では駅舎で寝るつもりだったのですが、機関士さんの言葉添えで客車の中で寝て、翌朝を迎えました。
残念ながら期待した富士山は姿が見えません。足柄方面から登ってくる列車を撮影しました。

 

今回は快晴で背後に立派な富士山が姿を現しています。
51年前と同じ方向は、大きな運動公園ができ、大分住宅が増えていましたが相変わらず田んぼが拡がっています。

 

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1965年5月5日
2016年3月4日

岩波

御殿場から岩波に移動して貨物列車を待ちました。本線時代の立派な築堤を上ってきます。
今は、この場面ではあまり変わりがありませんが、周辺には住宅工場が増えています。

 

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1965年5月5日
2016年3月4日

岩波

上のカットはスイッチバックの引き上げ線の上から撮ったものですが、現在はスイッチバックが廃止され引き上げ線の築堤もほったらかしになり、 雑木が伸びてしまい撮影はできませんでした。

少し下からの撮影です。 無秩序な建物が増えています。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

岩波

同じく岩波駅ですが翌年1966年の撮影です。大学入試に失敗し、浪人中なれど行っています。

 

春の嵐のような一夜が明けて御殿場始発の列車が到着します。まだ、雨風は強く駅からは離れられません。

下の写真に見る、右手前の平らなところがかつての道床の跡で、上の写真を撮ったホームは今はなくなり、空中に浮かぶのこのあたりです。駅舎は下の写真左手の三階建ての建物辺りにあったのでしょう。

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1966年5月11日
2016年3月4日

岩波

勾配を登って6:13に沼津からの列車が到着します。

踏切を越えて御殿場側に行き停車、バックしてきて、中央に見える水平の引き上げ線のホームに横付けします。

現在では構内のレイアウトが全く変わってしまい当時を忍ぶことが難しくなっています。

下の写真の、中央右手に見える平らなところが、上の写真の中央の引き上げ線の跡です。

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1966年5月11日
2016年3月4日

岩波

前の写真の続きです。

蒸気機関車の時代は、勾配の途中で列車を停めて再び発車させることができないので、水平の引き上げ線に入れて発車させる、というのがスイッチバック構造を造る理由でした。行ったり来たりを繰り返しながら勾配を登っていきます。

ここに見える踏切は、都合三回通過するわけで、通過待ちの車が長い列を作ることになってしまいます。

現代の電車は勾配途中での起動が可能なのでスイッチバックの必要がなくなり、ご覧のように勾配途中に新駅舎ができています。

 

Web Site「モノクロームの残照」から、また一部を引用してみます。

 

この岩波では駅のすぐ南に複線時代の栄華を彷彿とさせるような立派な築堤があってそちらも楽しめた。
天気が良ければ富士山も望むことができ撮影の魅力を凝縮させたようなところだった。
この駅の引き上げ線の小さな待合室で夜明かしをしたことがある。
静かな田舎だからゆっくりと寝られると思い駅員さんに頼んだのだが、
駅のすぐ側を国道246号線が走っていて一晩中轟々とトラックの音が絶えずあまりよく眠れなかった。
東海道を行き来する、急峻な箱根越えを避けて迂回してきた大型トラックの通り道だったわけで、
東名高速が開通するちょっと前のこと。日本一の幹線がそこに有ったのだ。

 

駅の直ぐ北側に大幹線道路があったのですが、バイパスもでき、何よりも東名高速もでき、今では閑散とした地方道になっていました。

駅周辺は建物が多く建ち様子は変わっていますが、道路の役割も含めて様々な変化があったようです。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

岩波

スイッチバックの引き上げ線の上での撮影、機関車はもう少し手前まで来ます。列車に乗り込もうとする人たちが停車を待っています。

引き上げ線築堤の跡は残っていますが… 周りも含めてすっかり変わってしまいました。

 

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1966年5月9日
2016年3月4日

岩波

岩波駅南の大築堤です。

 

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1966年5月9日
2016年3月4日

岩波

前の写真の続きカットです。

 

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1966年5月10日
2016年3月4日

岩波

恥ずかしながら…

18歳のときです。下の写真の白い棒のあたりに立っていたのでしょう。

カメラもレンズも多くはなく、生活用品も少なく、こんな格好で旅をしていました。

 

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1966年5月10日
2016年3月4日

岩波〜裾野

岩波から沼津方向、裾野に向かってしばらく歩くと富士山の眺めの良い場所がありました。
田植え前の田んぼには一面にクローバが咲き、周辺には人家は見当たりません。

それが今では… 住宅が密集しています。この写真だけでなく、ぐるり見回すと家だらけでしたね。
この写真の左の家に行き聞いてみると…
「40年前に家を建てたのだがその当時はここが一番早かったな。周りにはまだ家はなかった」

とのことでした。
このあたりは三島、沼津も近くベッドタウンとして急成長したのでしょう。
経済成長に連れての都市近郊の変化は特に大きかったと想像されます。

 

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1966年5月10日
2016年3月4日

岩波〜裾野

周辺はパノラマにしてみるとこんなふうに見えます。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

裾野駅

裾野駅の沼津側を見ています。

珍しくホームが延長されているのは朝夕の通勤通学客が多いからです。

30分おきに、東海道本線にも乗り入れる長大編成の列車が入っています。

沼津から10Km圏に入り、ベッドタウンとして発展し宅地化が進み周囲は大きく変貌しました。

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1966年5月11日
2016年3月4日

裾野駅

同じく裾野駅です。跨線橋や駅舎はあまり変わっていないようです。

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1965年5月5日
2016年3月4日

足柄

国府津方面に戻ります。
御殿場の隣駅足柄です。あまり変化はありませんが「時の流れ」は感じます。

 

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1965年5月5日
2016年3月4日

足柄

田圃はつぶされて運動公園になっていました。

 

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1966年5月10日
2016年3月3日

足柄〜御殿場

建物は増えていますね。
上のカットには、遠足でしょうかのどかな行列が見えます。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

山北

山北に戻ってきました。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

山北

このあたりは、桜が伸びた以外は大きくは変わっていないようです。
本線時代の立派な石垣、広い構内の片鱗が見てとれます。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

山北

駅構内の様子は大きく変わっていますね。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

山北

広かった構内は切り売りされて大分狭くなっています。

東海道本線時代の山登りの大基地から、今では一ローカル線になってしまいましたから仕方がないのですが、寂しいもんです。

 

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1966年5月11日
2016年3月4日

山北

前の写真の反対側を見たところです。

左手に見えるのは「小田急電鉄」の気動車急行、新宿と御殿場を結んでいました。

今も同じような特急列車が走っていますが、当時は一両編成だったのが時代を感じさせます。

 

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1965年5月5日
2016年3月4日

山北

美しい構内だったのですがね…

オリジナルポジションはもっとホームの端だったのですが、今では黄線の外には出られません。

かなりビビりながら撮っています。

 

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1964年2月21日
2016年3月4日

山北

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1964年2月21日
2016年3月4日

山北

また、Web Site「モノクロームの残照」から一部を引用してみます。

 

山北は静かな駅、静かな町だった。
箱根越えの準備のために、かつてこの構内を貨物が埋め尽くし、たくさんの機関車が忙しく走り回っていた姿を想像することはなかなか難しかった。
しかし、広い構内を歩いてみると、あちこちに朽ち果てた建物が点在し、長いホームが何本も残り、
立派な給水塔や跨線橋があり、往時の賑わいの片鱗を伺い知ることができた。
ぼくの御殿場への撮影行の最後はいつも山北だった。
なぜかそこは勾配に挑む蒸機の荒々しさや興奮を楽しんだ後の火照った身体を冷ましてくれるような静謐な空気が満ちていた。
廃墟とは不思議なものだ。

形がなくなりかけて朽ち果てようとしていても、強烈な残り香を感じることができる。
そこで働いていた人々や物たちの魂が今でもそこに残っているからだろうか。

 

そう感じてから半世紀、今では何の余韻も感情も感じられないつまらない空間になってしまったようだ…
と思う前に、本線ではなくなった1934年から63年までの約30年間に良く残っていたな、と考えた方が正しいのかもしれない。

時の流れは、疲れた魂を癒やしてくれることもあるのだが、時として残酷で無慈悲なものかもしれません。

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