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地図でご覧のように「山陽本線(赤)」の三原から海田市まで、87.0kmの風光明媚な瀬戸内海沿いを走る路線です。
同じ区間を山陽本線周りですと65.6kmで結んでいるのですが、あえて距離が長い路線を造った理由は……
そうです、軍港のある呉をはじめ沿線には軍事施設が多くありそのための路線だったようです。

 

江戸時代までは半農半漁の寒村だった呉に「呉鎮守府」が置かれ、軍港が開設されたのが1889(明治22)年です。 5年後の1894(明治27)年7月には「日清戦争」が起こり、広島市宇品港からはたくさんの兵士たちが朝鮮半島へと送られていきました。
また、戦争指導のために大本営が広島に移転し、明治天皇も滞在しています。まさに「軍都広島」が誕生成立した時です。

ちなみに、「山陽鉄道」が広島まで開業したのはこの年の6月10日。なんと、日清戦争の始まるわずか一ヶ月前です。
そして、広島と宇品港を結ぶ5.9kmの軍事専用線、後の「宇品線」は日清戦争が起こった翌月の8月4日に着工、20日に竣工し、 わずか17日で完成させて翌日から人員物資を運んでいるそうです。
「戦争」とは尋常ならざる物を生み出し、そして「戦争のためならば」不可能も可能にしてしまう、恐ろしい状態なのですね。          

 

14年後の1903(明治36)年には「呉海軍工廠」が誕生し、その後東洋一の大兵器工場となっていきます。
ちょうどその時を同じくして、軍都広島と軍港呉を結ぶ目的でこの間に鉄道が開通します、現在の「呉線」の前身です。

そして、翌年1904(明治37)年2月には「日露戦争」が起こり、有名なバルチック艦隊との「日本海海戦」をはじめとして、 日本海、そして黄海が主戦場となり、海軍力が戦争を大きく左右することを見せつけました。

 

呉から東へ鉄路が延びていくのはかなり経った1935(昭和10)年まで待たねばなりません。 この年の2月に呉~広間、6.8kmが伸延し、11月24日に海田市~三原間が全通しました。

開通を待って、ではないでしょうが、1937年には日中戦争が、1941年には太平洋戦争が起きています。
 

「呉線」としては海田市~三原間なのですが、実際の列車の運行は東西に多少延びた、広島~海田市~呉~広~三原~糸崎となっています。

この歴史からもお分かりのように、広を堺にして東西では路線の性格が大きく異なっています。
西側の広島~呉~広間は人口密度の高い沿線の人々を大都会広島へ運ぶ、朝夕の通勤通学大量輸送の役割を果たし、 広から東側の区間は景色もよく、観光路線と読んでもよいようなのんびりとしたローカル線の風情がたっぷりの線区となっています。

 

まずは西側から、海田市の隣駅、矢野付近を見ていただきましょう。

 

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1964年12月19日
2016年3月16日

矢野〜海田市

 

まず驚いてしまうのは、上のカットに見るように乗客が客車のデッキにしがみつき乗っていることです。 広から呉、そして沿線の乗客を乗せてきた列車は満員になっていたのでしょう。 呉線最後の駅、矢野から乗ろうとした乗客は客車の中には入れなかったのでしょうね。
かといって乗らないわけにはいかず… 短い区間ですから、デッキの手すりにしがみつき、いつもの“乗車”になったのでしょう。 よく見ると、二両目、三両目も同じようにデッキから溢れている乗客が見えます。
“自己責任”で物事が解決できた時代があったのは本当によかったと思います。
今でこそ“絶対安全”などと言っていますが、半世紀前はこんなことを平気でやっていた事実を前にすると、 「安全」とか「管理」とか、それは単なる責任逃れのお題目にしか聞こえないと思うのは、うがち過ぎでしょうかね。 もちろん前提となる状況が大きく変わっていることは承知の上ではありますが…

さて、ご覧のように広々とした田んぼが拡がっていたところには工場が密集しています。 上と下の撮影場所は“多分このあたりだろう”というぐらいの確信しか持てません。手がかりは全くありませんでした。

 

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1964年12月19日
2016年3月16日

矢野〜海田市

前の写真のちょっと前の撮影したカットです。 近くに高架道路橋があったので上ってみました。いや、凄い変わりようです。

ここ矢野付近は大都会広島のすぐ側で、経済成長と共に急激に住宅、工場など建築物が増えたところなのでしょう。 都会の周辺部が大きく変化した典型のようなところかもしれません。

 

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1964年12月19日
2016年3月17日

矢野駅 海田市側を見ています

右手にかつてあった貨物引き込み線はなくなり駐車場になっています。
のどかな田舎だった周辺も様変わりしています。

 

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1964年12月19日
2016年3月17日

矢野駅 前の写真とは反対側、坂 方面を見ています

小山は削られ、宅地になっています。
そういえばこのあたりの海側は埋め立てられて広大な土地が出現していました。小山は、その埋め立て材料になってしまったのでしょうか。

 

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1964年12月19日
2016年3月16日

矢野駅 海田市側です

かつては、駅構内のどこで撮影しようが全く問題はなかったのですが、今ではまるで夢のようです。
ここも本来は立ち入り禁止の場所で、列車の乗務員に見つかると、警笛を鳴らされて「不法侵入ですよ!」と言われかねません。
列車が来ないときに、”こっそり”と撮りました。  

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1965年4月2日
2016年3月16日

小屋浦駅 呉側の踏切からです

上のカットは踏切から線路に侵入し、後ずさりした場所からの撮影です。今ではそれはできませんから踏切からの撮影です。
背後の山を見て下さい。かつての段々畑は耕作放棄されて藪、そして住宅地になっています。

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1965年4月2日
2016年3月16日

小屋浦駅 広島側を見ています

同じく、背後の山の ”耕して天に至る” よく手入れがされた段々畑が、藪になっています。

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1967年3月25日
2016年3月17日

小屋浦駅 広島側です

上はその段々畑から撮影したものですが、上下左右、好きなポジションから撮影ができました。
現在の撮影ポイントは限られた場所しかありません。ほとんどが藪になっていて入っていくことも、見通しもないのです。
この下のカットは5m四方ぐらいの見通しがよい場所を見つけて撮りました。 幸いなことに、ほぼ同じ位置だと思いますが、微妙に違っているようです。
海が埋め立てられ、住宅が増え、右下には新しい高架道路ができていました。

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1967年3月25日
2016年3月17日

小屋浦駅 広島側です

前の写真の続きカットです。

手入れがされた段々畑が藪になり、高架道路ができているのがお分かりでしょう。
向かい側の島は、あの「江田島」です。

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1967年3月25日
2016年3月16日

小屋浦駅 広島側です

ここはかつての小屋浦定番ポイントです。
反逆光の中、長大編成の通勤通学列車が次々と発車していく垂涎の撮影ポイントでした。
今や…… 言葉もありません。

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1965年4月2日
2016年3月16日

小屋浦〜坂

太平洋戦時中、海田市~呉間は複線化の工事を行っていました。しかし、戦局の悪化もあり断念され、工事区間はそのままに放置されていました。
しかし、電化計画が持ち上がると放棄されたトンネルが活用されて再び使われることになりました。 上のカットで見る、右側のトンネルは放置されたもの、それを使って電化工事が行われ、現在使われています。
下のカットでは見えませんが、列車の左側にうち捨てられた旧線のトンネルが藪の中に口を開けています。

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1965年4月2日
2016年3月16日

小屋浦〜坂

何もない、海沿いの景観地だったのですが、今はドライブインの食堂が並び、海は埋め立てられて建物が続いています。

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1968年3月23日
2016年3月16日

小屋浦〜坂

上のカットはトンネルの上の段々畑から撮っています。
しかし、段々畑は藪となっていて今では入ることはできませんでした。
周辺も海側は埋め立てられて、工場が立ち並んでいます。かつて見えた静かな海の姿は全く見ることができません。

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1967年3月24日
2016年3月17日

呉駅 広島側です

広い構内敷地を持っていた国鉄はJRになり、どこでも土地を切り売りしています。
貨物輸送の縮小、列車本数、編成の縮小、事業自体の縮小が大きな要因だとは思うのですが、
それは弱った巨体のゾウに群がり肉をはぎ取るハイエナ(ハイエナ自体は可愛いのですが)のようにも思えてきます。
得をしたのは誰だろう? 「民活」などと言うきれい事ではなく”JR改革”とは一体なんだたのか、考えてみる必要があるでしょう。

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1967年3月24日
2016年3月17日

安芸阿賀駅

呉の東側の隣駅です。呉自体も大きな町ですからそのベッドタウンとして住宅は増えて発展したのでしょう。
それにしても… 国鉄用地払い下げに群がった、目先の利いた企業は喜んでいるのでしょうな。
それが経済原則と言えばそれまでですが、嫌なことですが、そういう連中だけがいつもよい思いをするのでしょうかね。

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1967年3月24日
2016年3月17日

安芸阿賀〜広

上のカットは地面から2m以上の高さの堤防の上、幅30cmぐらいのコンクリートの上で撮影していました。
多分、半世紀前は、その上をひょこひょこと平気で歩きながら好きなポジションで撮影していたと思います。何しろバランスには自信がありましたから。
しかし今回はそうはいきませんでした。同じポイントを見つけたうれしさはあったのですが、水面から5mぐらいの堤防の上に立つことはできませんでした。
あと10年若かったらば… できたかもしれませんが、今では無理です、多分、50%ぐらいの確率で水の中に落ちています。
幸い、ちょうどよい場所にドラム缶が置いてあって、その上によじ上って撮影しました。微妙な位置の違いはそんなわけです。

ファインダーの中に見える「画」も随分と変わっていますが、カメラのこちら側も大分変化してしまいました。

 

「呉線・2」に続きます、お待ち下さい。

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