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四月半ばの桜の時期に合わせて 「福島県会津」 を旅してきました。

 

ご存じのように、福島県は原発のある「浜通り」、新幹線も通って産業にも恵まれ人口の多い中央部の「中通り」、そして奥まった「会津」の三地方に分けることができます。
今回は、会津若松周辺にわずかに拡がる盆地以外は、深い山に囲まれた、と言うよりは山間部に集落が点在する南、西会津地方に行ってきました。 この地方を走る鉄道は三本あります。

 

中通りの郡山から会津若松を経て新潟県新津市を結ぶ「磐越西線・青色」が第一番の幹線です。
会津の人たちにとって東京と連絡する大動脈、大切な線区です。

 

会津若松から南南西方向、只見川に沿って遡るのが「只見線・緑色」です。
この路線は県境の峠を越えて新潟県の小出市まで延びているのですが、2011年夏の新潟福島豪雨でいくつかの橋脚が流されるなどの被害で、 現在は「会津川口~只見間・紫色」が不通となっていて代行バスで運行されています。

 

三番目は、会津若松から(正確には西若松から)南に延びる「会津鉄道・赤色」です。この路線も大川沿いに遡っていますが、 上記の只見川もこの大川も若松盆地付近で合流して「阿賀野川」となり、磐越西線沿いに新潟へ流れ下っています。
会津鉄道はかつては会津滝ノ原で行き止まりだったのですが、1986年に県境の山王峠を越えて栃木県の新藤原までの「野岩線」が開通し、 今では東武鉄道日光線とも結ばれて、会津田島から東京・浅草までの直通列車も運転されています。 かつては国鉄路線でしたが、現在は第三セクタの運営です。

 

このいずれの三線も、川沿いに点在する集落を結びながら走っているという点で、細長いわずかな平地をくねくねと走っていることを見ても、 この地方がいかに山深く過酷な地形であるかを象徴しています。

 

 

一回目は「会津鉄道」を訪ねてみましょう。
元々国鉄時代は「会津滝ノ原線」、そして只見線は「会津只見線」と呼ばれた行き止まりの兄弟線区だったのですが、 どちらも伸延されて、鬼怒川,小出へと抜けられるようになりました。

 

「会津鉄道」はJRに変わるころに第三セクターの経営となりました。
身軽な体制となり、簡易な車両を使ったり編成を短くしたりしながらも、列車本数は増やすなど、乗客の利便性は良くなっています。 現在、会津若松~会津田島間に一日15往復の列車を運転しています。

 

一方、只見線は会津若松~会津川口間にわずか6往復の運転に留まっています。
諸々条件が違うから単純な比較はできませんが、国鉄時代には「滝ノ原線」7往復、「只見線」8往復だったことを考えると、 現在のJRの経営がいかに硬直しているかよく分かりますね。

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2016年4月16日

芦ノ牧温泉

まずは「上三寄・かみみより(芦ノ牧温泉)」から。
会津若松の奥座敷と言われる「芦ノ牧温泉」はこの駅から数キロ離れた場所にあるのですが、 観光のためには魂を売ってしまうような馬鹿なネーミングになってしまいました。

温泉業者とのタイアップもあり、稼ぐためには仕方がないのか… 第三セクターの経営努力のたまものかもしれませんが、悲哀も感じます、よい駅名だったのにね。

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1972年4月18日
2016年4月16日

上三寄

44年前に、桜を撮りたくて訪れたときの撮影です。「汽車通学」の子供たちを見つけました。
ちょうど入学式の日だったのでしょうか、ピカピカの一年生、そして左の男の子は幼稚園に入ったばかりででしょう。
桜の若木は大きくなり、子供たちも皆50歳以上になっていることでしょう。
長かったホームの一部は使われなくなり草に覆われています。

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1972年4月18日
2016年4月16日

上三寄

おばあちゃんが面倒を見ているこの女の子も幼稚園入園児でしょうか。
写真を拡大して見ると肩から提げたバックには「桑原・みうら みほ」さんと読めました。
建物もほとんど変わっていません。

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1972年4月18日
2016年4月16日

上三寄

腰掛けているベンチも色は塗られていますが同じものでしょう。 窓枠がアルミサッシになっているのが分かります。

 

この子供たちが待っているのは田島行きの下り列車です。 
この「上三寄」の隣駅は「桑原」でその次ぎは「湯野上」です。当時の行政区分はここ上三寄と桑原は大戸町で湯野上は下郷町でした。
ということは… この子たちは桑原の子供たちです。
その桑原は、1987年に大川に巨大ダムが造られ「若郷湖・わかさとこ」の湖底に沈んでしまったのです。

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1971年11月6日
2016年4月16日

上三寄

上の写真は桜の前年、11月の撮影です。
ホームに並んでいる木箱は「会津身不知柿」でしょうか。到着する列車は会津若松行きの貨物列車、都会に向けて発送されるものでしょう。

 

下の写真には、何年か前にNHKの大河ドラマで「八重の桜」が放映されて、その時の名残が今でも残っていました。

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1971年11月6日
2016年4月16日

上三寄

上の写真の手前に延びている通路は、ぼくが立つ後ろに保線区員の詰め所がありそこへ向かうものでした。
こんな小さな駅にも駅員が何人もいて、保線区員も何人もいた、そんな時代でした。

 

若木は大樹となり、子供たちの声も、蒸気機関車の姿も、もうここにはいません。なんだか夢を見ているような春の宵です。

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2016年4月21日

桑原

「桑原」に行ってみました。若郷湖の上に長い橋が架かっています。前方の橋は下が会津鉄道、上が林道です。
この長い橋の左下に「旧桑原集落」26戸がありました。1977年に、19戸が上方に移転して、現在では左遠方に見える桜の更に左に、新しい集落ができています。

できたらば、最初にお見せした写真に写っていた子供たちの消息を聞いてみたかったのですが、残念ながら叶いませんでした。

 

しかし、80過ぎの男性から昔の写真を見せていただき、ぼくの撮った写真も場所が特定できました。以下の二点がそうです。

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1971年11月6日
2016年4月21日

桑原

このあたりの湖面の下のようです。背後の山の形からもそのように思えます。

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1971年11月7日
2016年4月21日

桑原

こちらもこの湖面の下でしょう。旧鉄道橋は現在の湖面横断橋のすぐそばに、吊り橋はその手前に架かっていたようです。

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2016年4月16日

湯野上

「湯野上」です。ここも「湯野上温泉」となっています。
茅葺きの駅舎といい、鉄道が地元の人たちの生活を運ぶ重要な役目を放棄してしまった現在、観光にぶら下がるのも仕方がないのでしょうかね。

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1971年11月6日
2016年4月16日

湯野上

慎ましくも凛とした駅舎、よく手入れされた構内でした。
今はゴージャスで贅沢な施設、付加価値を高めて高価格で売りつけるのは資本主義の常道なのでしょう。
誰もがそれに慣らされて、当たり前だと思うようになってしまった。
この国には現在1000兆円を超える借金があるのを忘れて、経済成長とやらにすがりつく悪魔のスパイラルからは逃れられないのでしょうか。

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1971年11月6日
2016年4月16日

湯野上

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1971年11月7日
2016年4月16日

湯野上

会津若松行きの列車を待つ人たちです。昔の人は、外出するときは皆ちゃんとした格好をしていましたな。
全く他人のことは言えないのですが、本当に今はラフな、個性的な、デタラメな格好をしているね。

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1971年11月7日
2016年4月16日

湯野上

折から桜も満開の上天気の土曜日だった。駅構内だけではなく周辺の道路からも…
鉄道写真マニア、一般写真ファン、それに普通の観光客も皆、携帯だのコンデジを持っているから、
写真を“撮っている”人はこの駅近辺だけでも100人はいたのじゃないかな。

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1971年11月7日
2016年4月16日

会津田島

南会津の中心地・会津田島です。

「会津滝ノ原線」は1967年10月に旅客列車の無煙化が完了して、蒸気機関車が牽く客車列車はなくなっていたのですが、この日は田島でお祭りがあったので臨時列車が運行されました。

 

かつては行き止まりだったこの地も、今では「野岩線」(下野と岩代を結ぶ路線という意味でしょう)の開通によって、鬼怒川へそして東京へと結ばれています。

なんとここまで電化され、浅草始発の「電車」が来ているのです。

 

時代は変わりましたね。

 

会津・2,3…と続きます、お待ち下さい。

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