会津編第三弾は「只見線」です。
今回は、いや、今回も鉄道色が強いので、ご覚悟、お許し下さい。
「只見線・緑色」は会津若松を起点に南南西の方向に延びている路線です。
1926(大正15)年に会津若松~会津坂下間 21.6km が「会津線」として開通したのが始まりです。
地図で見てお分かりのように、若松盆地の南の縁を大きく迂回したルートをとっているのは、「政治路線」だったからでしょうか。
若松から坂下まで直線で結ぶルートに障害物はなく、確証はありませんがそう思います、この不自然さはなんなのでしょう。
会津坂下からは只見川沿いの狭い谷筋に入っていきます。新緑や紅葉の美しい絶景の地を走ります。
1941(昭和16)年に会津宮下まで延伸しています。
敗戦後の1956年に会津川口まで線路を延ばし、
翌57年から61年まで、田子倉ダムを建設するために電源開発(株)専用鉄道として会津川口~只見間を建設してダム建設物資の輸送を行っています。 ダムの完成後、1963年8月に只見まで一般開業をしました。
1971年8月には県境の峠を6359mの「六十里越トンネル」抜けて新潟側の大白川と結び、上越線の小出駅まで全通しました。
この時以来「会津只見線」を改めて「只見線」と呼ぶようになりました。
1972年10月2日には蒸気機関車が牽引する旅客列車が廃止されて気動車に置き換わっています。
1974年10月には貨物列車を牽いていた蒸気機関車も廃止されて、この線区から姿を消したのですが、
2001年10月に「全線開通30周年」を記念して蒸機列車を走らせて、その後毎年春秋に運行されています。
2011年7月、新潟福島豪雨で会津川口~只見間の3カ所の橋梁が流されて不通となり、現在は代行バスが運転されています。 災害から5年が経ちますが、JRは経費のかかる復旧工事を進めることもなく放置した状態のまま現在に至っています。
豪雪地帯に住む人々にとって、特に冬期間はいかに鉄道が大事か、車では代替えできないことも多く、
分かってはいるのでしょうが、経費優先の経営態度を改める様子もありません、ひどいものです。
さて、只見線一回目は会津若松から南へ 3.1km 「会津鉄道」が別れる「西若松」周辺を見てみましょう。
ぼくが一年浪人の後に、ようやく進学できる大学が決まって旅をしたのが1967年3月です。
この時初めて「会津線滝ノ原線」「会津只見線」に行ったのですが、撮影効率を考えて二つの線区が撮れる「西若松」で降りたのです。
予想通り、駅を出ると田園風景が広がり好撮影地です。駅構内も広くてアングルも豊富で一日楽しめました。
なお、この会津線では、滝ノ原線に入る列車は300番台の列車番号、只見線に入るのは400番台の列車番号が付けられています。
まず、西若松駅から下り列車側、田島、滝ノ原、只見方面を見ていきます。
会津若松から到着した貨物列車が、構内で入れ替えをして貨車を切り離し、連結して新たな組成をしています。これから「会津滝ノ原」方面に入って行きます。
朝、駅に到着したときに、駅事務室に行き助役さんに「写真を撮らせて下さい」とお願いすると「ハイ、気をつけてね」と言われるだけでした。 書類を書くわけでもなく、未成年の学生でしたが信頼してくれたのです。
駅構内をあちこち移動しながら、もちろんこちらも十分に注意を払って作業の邪魔にならないよう撮影しています。 性善説が、信頼関係が、成り立ち、自己責任で行動できたのです。
今では全くダメですね。例えこの先一時間以上列車は一両も来ないとしても、構内に入る、ホームの外に降りるなんてことは一切出来ません。 それは、危険だからではなく、管理の都合上厳しく制限しているからなのですね。
それは確かに、中には線路に危険物をしかける輩がいるかもしれません。
でもそんなことを言い始めたらば、日本全国の線路は全て厳重な柵を設けて管理しなければならず、徹底できるはずもないでしょう。
取りあえず管理できるところだけでも管理するとの方針かもしれませんが、なんだか責任逃れのようでおかしな対応ではないかと思えてきます。
駅舎も跨線橋も立派なものに変わっています。駅の事務所自体も今流行の「橋上駅」となり二階に上がっています。 こちらは、会津若松から到着した貨物列車です。一番線に入って来ましたから「会津只見線」に入って行きます。
上の写真は線路に降りて撮影していますが、今はそうはいきません。ホームの縁に座り込み、カメラを線路の上に突き出してモニターを見ながら撮影しました。 そう列車がいないときにね。
この時は一時間以上も列車は来ないので改札口は閉まっていましたが、入場券を買って「ホームで写真を撮らせて下さい」と頼むと駅員さんは改札を開けてくれました。
入場券にスタンプを押しながら、若い駅員さんはぼくの顔を見てこう言うのですね、「ホームから落ちないように気をつけて下さい」!
確かに、不精髭を生やしていて、危なっかしい年寄りに見えたのかもしれませんが…
そ~かい… でもちょっとショックだな。
腕木信号機は味わいがありますね。
オリジナルポイントはもう少し右手からですが、手前が邪魔なのでここから撮りました。
構内入れ換えをしている機関車です。
どこまでが構内か、どこからが外なのか、ハッキリしないのが何ともよかったですね。
同じく入れ換え作業中です。
左が「田島、滝ノ原」方面、右が「只見」方面へ向かう線路です。
「滝ノ原」に向かう現在の「会津鉄道」の線路は位置が大分変わっています。
駅構内の土地を切り売りしたので、無理に曲げてしまったのでしょう。
駅を発車して只見方面に向かう列車です。
前の写真に見える踏切で、敷地にちょっと進入して撮影しました。
小心者のぼくはドキドキしたのですが、警笛を鳴らされることもなく無事に終了できました、よかった!
次ぎは、上り列車側、会津若松方面からの撮影です。
会津若松に向かう列車です。
「橋上駅」の若松側には道路橋が出来ています。頭が重くなってしまい何とも無粋ですね。
前のカットで見るように、列車の進入を右遠方に見えるホームで撮り、発車をもう少し引いた位置から撮影しました。
49年前は問題なく撮れたのですが、今は難しそう。
今回も別の意味で難しそうでしたが、曖昧な境界でしたから列車のいないときに撮ってしまいました。
下は、こんなに線路の近くで撮っていたらば大問題ですが、去りゆく列車ですから、大丈夫です。
多少の“知恵”はあるのです。
橋上駅の小さな窓から撮影しました。もっと右側のオリジナルポジションには入れませんでした。
当時の跨線橋よりは高くなり位置も変わっています。
南側、田島、只見方面を見ています。
道路橋から北側、若松方面を見ています。単線の線路がまっすぐ市内に伸びていきます。
高さも位置も変わっているのは仕方がありません。
こんなローカル線でしたが、一日一往復ではありましたが「急行列車」が走っていました。多様性がかろうじて残っていたわけですね。
同じく北側を見ています。
それにしても、構内の土地は切り売りされてしまいました。
民営化による「JR改革」とは、実は国鉄が持っていた広大な土地を民間に安く払い下げるためではなかったか、という説があります。
この連載で何度も目にした光景、広い土地が売られている状況を考えるとさもありなん。 あちこちで大儲けをした業者がたくさん出たのではないでしょうか。 半官だった財産を利権に群がった関係者で分けてしまった、そんな構造が見えてきます。「改革」などともっともらしい看板を掲げていますが、実態はなんだたか分かったものじゃありませんね。
駅を出て少し歩くと、広い、のどかな田園風景が拡がっていました。
…が、今では撮りようがありません。背後の山の形からほぼこのあたりと思うところに、アパートの階段があったので二階から撮ってみましたが、線路は全く見えません。
パノラマで見るとこんな光景です。 この前だけは空き地がありましたが、他は住宅が密集していました。
会津若松という大都市の周辺部ですから住宅需要もあり大きく変化したのでしょう。
しかし、不思議なことに線路の反対側はまだ、当時と同じように田圃が残っていました。
田島へ向かう列車です。
一枚が大変広い田圃で、農業整備基金で大規模農業をやっています。そうすれば農業でも生き残れる、ということでしょう。
考え方の違いですが、土地を切り売りした人、頑張って農業を続ける人、それぞれなのですね。
右手奥に見える三角形の山は「会津磐梯山」です。
同じく前の写真の反対側、南側を見ています。会津若松に向かう列車です。
「只見線」の線路を2kmほど歩き、会津本郷方面に行ってみました。
「大川」別名「阿賀川」に架かる鉄橋の手前です。堤防に向かって緩やかな勾配を上ってきますが、あたりはのどかな田園風景でした。
下の写真の中央に見える道路橋の上から撮ると…
このようになっています。
宅地化、都市化はすさまじいものですね。
特に、大きな都市の周辺の変化は経済的価値の変化が大きく、その様変わりも驚くものがあったと思います。
ぼくが住んでいる東京郊外の世田谷でも、この50年余の変化には驚きます。子供のころは麦畑の向こうに富士山を見ながら小学校に通っていたのですが、今や中高層の住宅が密集して何も見えません。「高級住宅地」などと言われることもあるのですが、畑や原っぱが一面に拡がっていたことを知っているぼくは笑っちゃいます。
子供のころに読んだ絵本「ちいさいおうち」を思い出します、現実の出来事としてそうなっちゃいましたね。
「阿賀川」に架かる鉄橋です。
この時期は山の雪解け水で川の流量は多いはずなのですが、随分と減っているのは上流の「大川ダム」の水量調整によるものでしょうか。
1972年10月1日 425レ
2016年4月21日
会津高田
会津高田駅です。
72年10月1日。この日は蒸機牽引の旅客列車運転の最後の日です。 ホームには近所の人たちが最後の列車を見に来ています。
ぼくは、この時は車で行っていたのですが高田駅前の広場に車を置いて、列車に乗り会津川口まで撮影しながら往復しています。 その始まりのカットです。
「会津坂下の朝」はこの後で撮ったものでした。
1972年10月1日 425レ
2016年4月21日
会津高田
1972年10月1日 430レ
2016年4月21日
会津高田
同じ日の夕方、会津川口から戻って来て、列車を見送ったところです。
今では、線路は一本だけしか使われなくなり、跨線橋は取り壊されていますした。
1972年9月28日 430レ
2016年4月22日
会津高田〜根岸
1972年6月に撮影に行ったときに、会津高田近くの線路から西側にある山を見上げると林道が見えました。
ダートを走るのは大好きですから、早速上ってみると良い展望が開けていました。
今回同じ場所を探したのですがなかなか見つかりません。
上の写真の左下に見える大きな建物が学校のようなので、地元の人に聞いてみると分かりました、矢木沢集落の赤沢小学校でした。
林道は「芦沢林道」。しかし、土砂崩壊のために今は通行止めになっていて仕方なく歩いたのですが、展望は開けません。 結局、かなり上の「蓋沼森林公園」まで3kmほど歩いてしまいました。
ここの管理棟駐車場からは展望が開けていますが、オリジナルポイントよりはかなり高いところで位置も随分とずれていました。 下の写真が管理事務所駐車場から撮ったものです。
よく見ると、下の写真の右下に見える林道のカーブの更に右手あたりだったようです。今では樹木が伸びてしまい全く展望はききません。
この「蓋沼森林公園」へは別の林道・雀林線で上ってこられるので、夕方再度の挑戦です。
下の写真は日が暮れてからの撮影、中央やや左上に4両編成の列車が見えますでしょうか?
右下の林道カーブの上に、鉄筋コンクリートの赤沢小学校が見えます。
その小学校から列車の方向に伸びている道が、上の写真の左側に写っている道路です。
ここも、田圃の一枚一枚が大きくなり大規模経営が行われています。
5月連休明けには田圃に水が張られて、一面の水鏡が出現するとか…
左上に見えるのが会津若松市の南側、西若松あたりでしょうか。
ぼくにしては珍しく三脚を立てての撮影でした。三脚の脇に車を停めて、ガスコンロを出して焼き肉をやりながらの撮影です。
しかし、この公園には「熊出没注意」の看板があります。焼き肉の匂いに誘われて出てきはしないか?とちょっと心配しながらでした。
もちろん、肉を食べるにはお酒を飲まなくてはいけません。
健康的に野菜も食べて、500gの肉を平らげて、お酒も飲み、折からの月夜の晩、楽しい車中泊でした。
次ぎもまた「只見線」です。
「会津坂下の朝」に挑戦したのですが、坂下はとんでもない駅長で、ふんまんやる方なしです。
詳しくは次回に…