只見線の二回目は、若松盆地の西部にある根岸から、北西部の町、会津坂下へ、そして只見川の狭い流域に入って会津坂本、会津柳津を訪ねます。
只見線の二回目は、若松盆地の西部にある根岸から、北西部の町、会津坂下へ、そして只見川の狭い流域に入って会津坂本、会津柳津を訪ねます。
根岸
上は、会津宮下始発、根岸発6:30の会津若松行き列車です。会津坂下から2両増結されて、C11は堂々6両の客車を牽いています。
現在の422Dは根岸6:53発となり、始発駅も会津川口まで延長されていますが、編成は4両です。 それでも現在の只見線を走る列車の中では最長編成となっているのです。
本当は…
根岸
駅を出て直ぐのこのカットの対比をしたかったのですが出来ませんでした。
というのも、これは「火の見やぐら」に上って撮ったのですが、現在はサイレンが上に取り付けられた高い柱になっていて、上ることは出来ませんでした。
「火の見やぐら」なんて今は見ることもありませんね、残念ながら。
こちらの田圃は刈り入れが終わり、会津独特のはざ掛をして天日干しているところです。
現在はコンバインで刈り入れ、機械で乾燥させるそうで、はざ掛けは見られなくなってしまったようです。
「本当は天日干しのお米の方がおいしいんだけどね」と説明してくれたオバさんは言ってました。
なお、この写真は10月1日撮影。翌2日から気動車化されていますから蒸機牽引客車列車の最後の日です。
2016年4月16日
根岸
新鶴
かつては立派な駅だったのですが、今では小さな「小屋」のような待合室が一つあるだけになってしまいました。
一日7往復。10:04の会津若松行きの列車が出ると、次は13:39の会津川口行きまでありません。
「朝夕の、通学、通勤輸送だけはやってやるか」とでも、JRのやる気の無さが聞こえてくるようです。
隣の「会津鉄道」は一時間に一本の列車を運行すべく頑張っているのと対照的です。
都市化が進むところでは余剰の土地は切り売りされていますが、このようなところは放置されたままです。 雑草が生えて、藪になり、荒廃しています。儲けのことしか考えない経済優先策は見事に貫徹されています。
会津坂下
上は、5:12只見始発、6:54坂下発、仙台行きの急行「あいづ」です。
西若松で、会津田島から来た車両と併結し、若松で喜多方から来た車両を併結して仙台に向かいます。
仙台到着は11:44、ちょっと時間がかかりますが乗り換え無しで行けたのですね。 乗客も多く、ホームに積まれた小荷物も多数見えます。
上の写真を見ていると遠くの信号機まできちんとした駅構内が続いているように見えます。
かつては、地方に行くと多くの駅は町外れに「懍」とした空間を作っていたのですが、今ではだらしなく見えるものが多くなっていました。
社会は豊かになったことになっていますが、一体どうしてなのでしょう?
会津坂下
今回の旅の大きな目的の一つはこの対比でした。
実は何人かの方々が既にやられていて、いささか遅きに失した感が有るのですがやってみました。
上の写真は今まで、会津坂下の駅で二本の列車が到着するのを待っていて撮影した、と思っていたのですが、 今回、何本かのネガを詳しく見て前後関係を調べてみると、この日は会津高田に車を置いて425レに乗って坂下に来ていました。
425レが停車すると同時に駆けだして、かねてより目を付けていた、前の写真の左手に写っている「給水塔」に上って撮ったものだと分かりました。
しかも、この日は蒸機牽引旅客列車最終日の撮影でした。 今まで、「1972年9月撮影」と記してきたのですが、実は「10月1日」だったのです。「訂正してお詫び」しなければいけません。
会津坂下
これがその前に撮ったカットです。左から424レが進入してきます。
事前調査では現在は給水塔はなくなっているようです。 高い脚立を持っていって…とも考えたのですが、3mほどのものが必要で現実的ではありません。
まぁ、平地でもいいや、と思って駅で頼んでみることにしました。 十分な余裕を見て一時間ほど前に駅に行きました。8時前ですからまだ駅長さんは出勤しておらず、助役さんにあいさつをします。 名刺を出して何者か名乗り、写真集を贈呈して、何をやりたいか説明しました。
今では左手の424Dが8:16に到着します。次ぎに右手の425Dが8:20に到着します。左手の424Dの発車が8:23、425Dの発車は8:25です。 ですので、この空白の8:20から8:23の間の1分間ぐらい、列車が停まっているときに給水塔跡地あたりから撮影させて欲しい、と頼んだのです。
列車が全て停まってから現場に行き、列車が動く前には必ず所定の通路に戻るから、と…
「わかった、職員を付けるから、列車が停まってから移動して、動き出す前には戻ること」というようなことで収めてもらえないか、 と考えたのですが… 全くダメでしたね。
「それはうちの管轄ではなく管理できないので、JR東日本・福島支社の広報に連絡して、職員を派遣してもらって立ち会いの上で撮影して下さい」と、 わざわざ電話番号を調べてくれて手渡されました。
まぁね、これから直ぐ手配できるわけではなし、わざわざ朝の列車のために職員を福島から呼ぶことも出来ないだろうし、あきらめました。
幸い、オリジナルポイントの後方に歩道橋が新設されているので、その上から撮ることにしました。
その日は快晴でここは逆光になるので、この写真は後日曇りの日に再撮影したものです。
面白いのは乗客が高校生ばかりなのですね。この駅の直ぐ隣には「会津坂下高等学校」と「会津農林高等学校」があり、その生徒さんたちです。
会津川口から来た424Dからは約20名、会津若松から来た425Dからは約200名 (駅員さんの話) の生徒が降りてくるそうです。
そして、それぞれの列車に乗り込む客はこの日は全くいませんでした。 「通勤」する人たちは皆車を使うようになったのですね。車を持てない高校生ばかりがお客さんのようです。
二つの学校に行って話を聞いてみるとまた興味深いことが…
「農林高校」では、1970年頃は生徒数も多く全学で900人ぐらいいたけれども今は300人ちょっと、1/3になってしまったそうです。
では、「かつての乗客に高校生の姿がほとんど無く、今は高校生ばかりなのはどうして?」と聞くと、 「昔は、この地方周辺から通う生徒ばかりで、徒歩や自転車通学だったのですが、今は若松市内から通ってくる生徒が増えました」とのこと。
子供数の減少で生徒数も減っているのですが、高校の序列化など複雑な要素からこうなっているのですね。
さて、列車も行ってしまい次の列車が来るのは一時間半後の9:54の会津若松行き。川口方面へは13:46までありません。 駅に戻って、ホームで撮影させてもらうように頼みました。
一番最初の急行「あいづ」のカットなどを撮り、帰りがけに通路から給水塔跡に行ってみようと思ったのです。だって、列車は来ないからね。
ところが、2,3歩歩んだところで事務所のガラス戸がガラガラと開き、「そこは行っちゃダメだ、と言ったじゃないですか」と大きな駅長の声です。 「ルールを守れないならば、出て行って下さい」と追い出されてしまったのです。ちゃんと監視されていたのですね。
「行ってよい、悪い」は列車が出入りするときの話、今では線路に寝そべってもなんの問題もないのにね。
「管理できない」といいながら「管理している」おかしさにも笑ってしまうのですが、「安全第一」のためではなく「管理のための管理、メンツが第一」なのでしょうな。
ぼくはフリーランスの写真屋です。「ダメだ!」と言われて撮るのを止めるわけにはいかないことが多々あります。無理して強引に撮ることもよくあります。
昨今、中国での撮影では何度レンズの前にかざされた手のひらを撮ったことか! 全く中国は… と思っていたのですが、日本も全く同じですね。
そう言えば、この駅長は構内巡回でしょうか歩き回って、片隅で日向ぼっこをしていた野良猫数匹を蹴散らしていましたね。
ぼくも首輪を付けない野良犬のようなものですから (気性はいたって穏やかなのですが)気に入らないのかもしれませんね。
中国人管理職の役人根性も度し難いものがありますが、日本のたちの悪い中間管理職も、権威を振りかざすだけでひどいものです。
あまりの馬鹿馬鹿しさにケンカする気にもならず帰りました。
会津坂下
歩道橋から見下ろした光景で、下の四角いコンクリートの塊のあたりが給水塔跡です。
ホームの外れの線路を横切る通路からここまで、気動車一両分ほどの約20mは想像を絶するほど遠い距離でした。
昨今、写真を撮影することが難しくなってきました。肖像権や意匠権の問題、防犯上の理由、安全管理のための規制…などなど。
今まで問題とならなかった事柄や自己責任で解決できた状況も問題視されてしまい「撮っちゃダメ!」となっています。
「肖像権」に関しては非常に難しく悩ましい問題でしょう。今まで曖昧にしてきたつけが回ってきたように思います。被写体となる方々の肖像権は尊重しなければいけないのは自明のことですが、「群衆」や「点景の人物」などをどう考えるか意見の分かれるところです。
また、「写真を撮る」「表現する」という行為は時として非常に大切なことでもあり、その時代の社会風俗を記録しておくことは大いに意味のあることではありませんか。
今お見せしている写真がそうですが、半世紀前に、そんな大それたことを考えて撮っていたわけではないのですが、当時の社会が写り残っていたことはよかったと思っています。
「写真屋」は「記録者」としての自覚とプライドを持っても良いのではとも思います。それは職業写真屋だけでなく、アマチュアであろうと同じことでしょう。
「肖像権」の問題を解決する一つのヒントは「撮った写真を悪意で使わないこと」ではないでしょうか。横暴な権力者を告発するときとは違って、身の回りの群衆を撮るときにはそのことに気をつければよいように思います。人物のアップの撮影の場合などはそれなりに気を遣う必要があるでしょう。
「防犯上」とか「管理のため」というような胡散臭い理由は多くの場合は無視してよいように思います。昨今、「防犯カメラ」で我々のプライバシーは丸裸にされているのに、こちらからは撮ってはいけない理由はないでしょう。撮影そのものが犯罪行為ではないのですから自信を持って撮ってしまいましょう。
また、「写真」は撮影の対象物に依存する表現行為ですから、被写から「イヤだ!」と言われてしまうと成り立ちません。そこで、作者の「著作権」をあまりにも声高に主張するのはまずいのではないか、とぼくは思っています。
もちろんぼくは職業写真屋ですから、著作権に守られて収入があり生業としてやっていけるのですが、発表した写真はぼく個人のものだけではなく「社会の財産」になってくれたらばよいと思っています。
これまたもちろんですが、ぼくの写真を利用して金儲けをされるのは面白くありません。真似をされて、新たな著作権を主張されるのもイヤです。
しかし、見て下さった方々がそれぞれの個人の楽しみで利用されるのはよいのではないかと思っています。このサイトもそうですが、「こんなに大きな画像を貼り付けて、利用されちゃうよ」と忠告して下さる方もいらっしゃるのですが、それはそれでよいと思っています。例えば、画像を右クリックで保存して解像度を変えればポストカードぐらいはできてしまいます。それを販売されたりすると困りますが、節度を持って下さりお楽しみいただくかぎり問題なしと考えています。
ここ2,3年中国によく行き鉄道を中心に撮影しています。「撮影禁止」はしょっちゅうですが、ぶっちぎって撮ってしまいますね。
「ダメだ」と言われて止めるのはダメ!撮らなければいけないことも多々あります。
今回の会津坂下ののような出来事に遭うと悲しくなります。「強権大国」の中国以下ですね。
「写真撮影」はもちろん基本は楽しいからですが、個人の利益のためだけではなく、色々な意味合いを持っていると思っています。
会津坂下
町外れの踏切です。夕暮れは風情がありました。
会津坂下〜塔寺
線路は会津若松盆地の縁に到達してここから右手にカーブして勾配を上ります。
会津坂下〜塔寺
こちらは朝、前の写真の奥のカーブ付近から反対側を見たところです。
盆地が拡がり、左手遠くに磐梯山の一部が見えます。
4両編成の422レが下って行き、坂下の駅で2両増結します。
その間の時間を見越して、こちらは細い道を駆け抜けて根岸に向かいもう一勝負。
それも明日まで…
会津坂下〜塔寺
会津坂下〜塔寺
会津坂下〜塔寺
列車は右手に盆地を見下ろして勾配を上っていくのですが、絶好の撮影地が何カ所かありました。
しかし、現在では右も左も樹木が繁ってしまい展望はききません。
山の手入れが全くされていないのでしょうね。
会津坂下〜塔寺
見事な完全燃焼で煙は見えず。でもこれが暑い時期の普通の光景です。真っ黒な煙の「爆煙」なんて馬鹿なことはありませんでした。
わずかに撮れそうなところが残っていましたが、ここも展望はきかずダメですね。
会津坂本
木々の生長に、静かな時間の流れを感じます。
会津坂本
会津柳津
粗末ながらも手入れのされた待合室があったのですが… 今は荒れ放題の様子です。
駅構内だけでなく背後の山もほったらかしのようです。
会津柳津〜郷戸
会津柳津〜郷戸
前のシーンと同じ橋梁です。
どこで撮ったかすっかり忘れていて、大分苦労して探し当てました。 「柳津虚空蔵さま」の裏手でしたが、今ではこの橋を正面から見下ろすポイントが有名撮影地になっているようで、何人かがカメラを構えていて驚きました。
オリジナルポイントは藪になっていて入れません。多少下からの撮影です。 それにしても、桜の木の成長は早いものですね。有名撮影地の出現と言い、時の流れをしみじみと感じます。
次回は会津編の最後、宮下から川口へ。そして只見方面へも行ってみました。
最後の日は会津の山を走り回って東京へ、44年前と同じ道をたどって帰ってきました。
果たしてどうなったのか、ご期待下さい。