只見線の三回目は、会津柳津から奥へ、只見川の渓谷沿いに旅をします。
今回の地図は只見線沿線だけでなく南へ目を向けて鬼怒川、今市、日光をカバーするものを用意しました。
「会津」と言うと、郡山から猪苗代湖の脇を抜けて行く奥まった袋小路のイメージが強いのですが、鬼怒川、日光に抜ける街道が江戸時代からあったのです。
それは「会津西街道」と呼ばれ、会津藩ばかりでなく米沢、庄内、村上藩などの参勤交代にも使われ、会津以北と江戸を結ぶ重要な道だったのです。明治初期にはイギリスの女性旅行家「イザベラ・バード」もこの道を通って東北地方を旅して「日本奥地紀行」を記しています。
ぼくも会津線撮影行の後半、1970年秋からは車で行くようになりこのルートを使っていました。「東北道」など高速道もなく、最短路でしたし曲がりくねった道は交通量も少なく“快適な速度”で往復したものです。
また、会津滝ノ原線(会津鉄道)と会津只見線(JR只見線)に挟まれた山間部には興味深い林道が多数走り、山奥に暮らす人々の集落を結んでいました。心細いような荒れた細い砂利道を進んでいくと突然集落が現れる様に驚き、こんなところにも人々が住み生活があるのだと感動したものでした。
そして関東方面だけでなく、南西部の檜枝岐から御池の峠・1535mを越えて銀山湖畔を通り新潟県の小出にも抜けられました。恐ろしい山道でしたが楽しいドライブでした。
その他にも南の舘岩・湯ノ花温泉から田代山の東の峠・1586mを抜けて湯西川に行くルート。会津田島から栃木県の塩原に抜けるルートなど、楽しい林道が多くて、会津撮影行の最後の一日はいつも林道走りを楽しんできたものです。
いやいや、大分脱線しました。線路に戻りましょう。
上の写真は蒸機旅客列車最後の日に列車に乗って撮ったもので、機関助士が駅員さんにタブレット(通行手形)を渡している光景です。
よく見ると遠方に少年たちがカメラを構えています、近所の子供たちだったのでしょうか。
縦位置で撮影していますから右半分はありませんが、今ホームに立って見るとこんな光景です。
上の写真の左手、そして駅舎の近くに見える樹木は「桐」です。かつては会津地方ではよく見ることができたのですが、最近は少なくなってしまいました。
今では展望台にもなっているところから「只見川第一橋梁」の撮影です。もちろん当時はそんなものはなく、急な山の斜面を樹木を掴みながら移動して展望のきくところで撮影したものです。
このアングルで撮影したのは1972年6月が最初です。と言うのも、この山の中腹にトンネルを掘り新しい道路の工事が行われていて、初めて見つけたアングルだったからです。
それまでは上の写真の右下に見える砂利道が国道252号線でした。そのバイパス道路の工事現場(多分まだ完成はしていなかったと思います)を下から見つけて探し当てたものでした。
すぐ側の「道の駅」には案内板もあり、階段も完備されていて安全な撮影地になっています。
しかし、仕切りの柵の下をのぞき込むと樹木が大きく伐採されていることが分かります。そうしなければ展望が確保できないからでしょう、自然に任せていたらばここからの撮影はできなかったはず。
今や有名な観光地点ともなり、事情は分かるのですが複雑な気分になってしまいます。
かつてはこんなアングルからも撮影できました。砂利道国道から斜面を降りて撮ったものです。
今回もトライしようと思ったのですが、旧道はうち捨てられて崩落が続いていました。道路自体が消滅しているところもあって、あきらめました。
絶景ですので、もう一枚。
今はちょっと寂しいのですがもう少ししてからの新緑、秋の紅葉のころがよいようです。
会津西方の駅です。駅北側の高台から撮影したものですが、今では藪になってしまい撮れませんでした。
風情のあるところだったのですが、今ではつまらない空間になってしまいました。
駅から高台を見上げ、駅前広場はこうなっています。通過する道路だけが立派になっていました。
会津西方〜会津宮下間に架かる「只見川第二橋梁」です。
会津宮下に列車は到着しました。
これも今回の2カット目の「滝谷」でのタブレット受け渡しと同じ蒸機旅客列車最後の日の光景です。
タブレットの輪っかの向こうには三脚を立てて構えているカメラマンがいますね。
駅員さんの笑顔と、よく手入れがされているホームが印象的です。
前のシーンの続きです。近所の人たちが集まってきて和気あいあいと記念撮影ですね。
鉄道と生活が密接に結びついていた時代。本当に、今のJRの職員に見せてあげたくなりますな。
1971年11月8日
2016年4月19日
会津宮下
1971年11月8日
2016年4月19日
会津宮下
この2シーンは前年の秋に撮影したものです。
貨物列車が活躍していて、多くの職員が働いていた時代でした。
建物は同じように残っているのですが、今や空虚な空間が拡がっています。
「合理化」の名の下に「改革」が断行されて、果たして幸せになれた人がどれだけいたのでしょうか。
ここは「只見川第三橋梁」、有名撮影地です。崖の上を走る国道252号線から撮ることができたのですが、今では国道はスノウシェッドの中に入り、樹木の生長もあって撮影できる場所は限られてしまいました。
前のシーンの対岸からの撮影です。前のシーンのちょうど列車先頭の遠方に横に白く見えているあたりから撮りました。
逆にこちらから見ると、崖の中腹を走る国道252号線がスノウシェッドで覆われているのがお分かりでしょう。
と言うよりは、かつては法面の崩壊も見えて危うい道路管理だったことがよく分かります。豪雪地帯ですから大変だったことでしょう。
さて、ここでちょっと寄り道です。
かつて、国道とはいえ砂利道ばかりだったころ、この付近の地図を見ると「沼沢沼」という小さな湖が山の上にあることが分かりました。どうやら細い道が続いているようなので行ってみることにしました。
只見川から標高差220mを、ヘアピンカーブ連続の荒れた道を快適に上りきると… 典型的なカルデラ湖です、山の中に静かにたたずむ神秘的な湖が拡がっていました、感動的でしたね。
今回も時間があったので(いつもそうですが、金はないけれども時間はたっぷりあります)行ってみました。
今は観光スポットになって色々は施設ができていましたが、静かなたたずまいは昔通り、二度と来ることはないだろうと思っていただけに、“ちょっとセンチメンタル”になりましたね。
再び只見川に戻ります、ここは早戸駅。
近くに早戸温泉もあり集落もあるのですが残念ながら駅は長いトンネルを抜けた辺鄙なところに造られています。このアングルは旧国道からの撮影ですが、今ではバイパスのトンネルができて廃道になっていました。
ご覧のように駅の背後には立派な道路も出来上がり、物流をになう主役は車に取って代わられています。
かろうじて列車は走っているけれども乗る人がいない。
沿線風景を見ると、手厚く面倒を見ている道路土木事業、自動車産業。それに対してエネルギー効率のよいはずの、そして過酷な気象条件でも信頼のおける鉄道はほったらかしにされていますね。
日本国の基幹産業は自動車だ、公共事業だ、国の方針でそうなった、しょうがない、と言えばそれまでですが、なんだかおかしいですよね。
早戸駅の南側です。左がバイパストンネル、右が旧道です。前のシーンはこの旧道の電柱のあたりから撮ったものです。
右の写真は廃棄された旧252号線。確かにこんな道を雪崩や豪雪から保守するのは難しく、新しい設備を造る意義は分かるのですが、その何分の一かでも鉄道に回してくれればより豊かな社会ができるように思うのですが、ダメでしょうかね。
線路を乗り越す国道252号線の上からの安直な撮影です。
上の写真は、多分会津西方あたりから425列車を追いかけて来て、何度かの撮影の後で会津川口に滑り込む直前に撮ったものだと思います。列車の速度は速くありませんが、こちらが走るのは曲がりくねった砂利道でしたから苦労したことを覚えています。
今見ると右側には新しい道路ができ、左側の高台が削られ、と大分様相が変わり生活様式が変化していることが分かります。
こちらは、会津川口駅から会津若松方面に向かう上り列車の発車風景です。
小さな町の外れに只見川を横断する大きな橋が架かっていて、その上からの撮影です。
現在は下流側に新しい橋が架かり、目の前に見えるパイプ、橋脚は旧橋脚の残骸の一部でしょう。オリジナルポイントからはちょっと後退した位置からの撮影となりました。道床を見比べていただけるとお分かりになると思います。
道床と言えば、レイルが3本あってなにやらデュアルゲージ(レイル幅が異なる二種類の車両が走れる線路)のようにも見えますがそうではありません。きっと脱線防止用の護輪レイル(別名「オリンピックレイル」)ではないでしょうか。だって、ここで脱線したらば大変なことになりそうですもの。
建物が多少大きくなっていますが、変わらないと言えばほとんど変わっていません。44年間、どのように時が流れていたのでしょうか。
蒸機旅客列車廃止二日前の会津川口駅です。425列車が到着しました。
さすがに別れを惜しむお客さんたちの姿が多く見えます。
これから、ホームの反対側に列車を移動してから機関車を切り離し、構内はずれの転車台で機関車の向きを換えて会津若松側の先頭に連結します。
構内を列車や機関車が行ったり来たりするのですが、“安全な場所”から好きなように撮影ができました。
425列車を牽引してきたC11248は方向転換も終えて客車の会津若松側に連結され、430列車の準備が整いました。
やがて、貨物列車が到着します。皆、思い思いに撮影していました。
右奥にはちらりとですが「奥会津」の木材が切り出されて出荷される様子が見えます。
貨物列車の機関士さんが降りてきました。
点検ハンマーを握り、座布団の中に運転時刻表を挟んでいます。 そうですよね、蒸気機関車の座席は本当に粗末なもので、座布団でも敷かなくてはやっていられません。労働環境、快適性など全く考えられなかった時代の代物ですからね。
近所の“悪ガキ”でしょうか、なにやら線路の小石を集めています。
でも、当時駅はどこでも子供たちの遊び場でしたから、よほど悪いことをしない限り大人は子供をしかったりしませんでした。
そう、駅構内をちょろちょろと歩き回る、“カメラを持った大きな悪ガキ”にも寛容でした。
駅の建物の構造が変わってしまいオリジナルポイントには入れず、線路際に押し出されています。
これは最後の日です。ぼくは会津高田から列車に乗り、ここ会津川口までやって来ました。転車台で方向転換をする機関車を撮影しています。
他のカメラマンたちが長髪で、ベルボトムのジーンズを履いているように見えます。1970年代前半の強烈なファッションですね。ぼく自身はどんな格好をしていたのか? 思い出せません…
会津川口駅です。と言うよりも「JA」「JR」「JP」(よくもまぁ、こんな名前になったものだが…)の複合施設建築物です。
なるほど、ここに来れば「ワンストップ」で事が済みそうで、駐車スペースもあるし利便性はよさそうです。
しかし、合理的ではあるのですが一抹の寂しさも禁じ得ません。「過疎」と向き合う、身を切るような辛い現実を目の当たりにして、深い溜息が出てきます。
会津川口から更に奥に行ってみます。
現在この、会津川口〜只見間の27.6kmは不通となり、列車は走っておらず「代替えバス」が細々と代理の役割を担っています。
と言うのも、2011年7月下旬に発生した「新潟・福島豪雨」で未曾有(「みぞうゆう」じゃなくて「みぞう」ですよね麻生さん)の降水があって三カ所の橋梁が崩落したためです。
復旧事業費はJR東日本の試算では約85億円。しかし、この区間の年間運賃収入は約500万円。それに比べて運行経費は3億3000万円もかかっているので、JRとしてはできれば廃線にしたいようで、一向に復旧工事にかかる様子はありません。復旧したらば経営赤字分は県と沿線自治体が負担すると地元が提案してもウンとは言いません。
問題を複雑にしているもう一つの要因は、この災害が「天災」だけではなく「人災」でもあったからです。豪雨自体は天災だったのでしょうが、電源開発と東北電力の管理による上流ダムの放水が只見川の増水に拍車をかけてしまい大きな災害を招いてしまったからです。確かに豪雨時のダムの放水増量は仕方がない側面もありますが、普段のダムのメインテナンスが十分ではなかったためということも判明して、電源開発、東北電力の責任も問われています。
通常でしたらば訴訟が起きても不思議ではないのですが、しかし、半官半民の「電源開発」「東北電力」「JR東日本」はお互いにもたれ合い構造なのですね、黙りを決め込んでいます。
さて、元々赤字路線に85億円をかけるなんてとんでもない、バス路線で十分ではないか、というご意見もあるでしょう。しかしここは名にし負う豪雪地帯です、丈余の雪に埋もれて暮らす人々にとって「鉄道」は心強い生活の手段であることを分かってあげたいですね。その恩恵が何千人、いやたったの何百人であったとしても考えてあげなくてはいけないことではないでしょうか。経済効率とは対極の考え方かもしれませんが、今こそこういう時代だからこそ、弱い立場の人たちへの配慮が必要だと思います。
復旧事業費85億円ですか。
「F15」戦闘機が一機120億円。「国民の命と財産を護る」経費としてどちらを優先すべきでしょうかね。
水面に近い位置に線路があったので、ここを一番心配したのですが無事だったようです。
流れの向きと同じ方向に線路が延びていたからでしょうか。
只見川本流ではなく支流に架かる橋梁だったので無事だったのかもしれません。
いかにも戦後造られた橋梁のような素っ気ないデザインですが、カーブしながら川を渡る様は味があります。
さてさて、今回の「福島県会津」編の汽車旅はここで終わりますが、「おまけ」をちょっと…
毎度、会津に自動車で行くたびに最後の日は山の中の林道を走っていました。
この時は会津訪問最後、蒸機旅客列車最終運転の翌日です。
今と違って正確な地図が手に入らない時代です。轍のある道を見つけると闇雲に入って行き、発見を楽しんでいました。抜けられるかどうか分からないけれども行ってみる。峠を越えて抜けられたときは快感です。もちろんそうじゃないときのほうが多いのですが。
会津柳津から川沿いの細い道に入り、西山温泉から更に細い道を「大丈夫かいな」と思いながら山奥に向かうと突き当たりの集落に出ました、ここが行き止まりです。道路地図には載っていないない集落「高森」がそこにはあったのです。
今一枚だけ残っている写真がこれなのです。
白墨で書かれた文字は 「此の地をば去りぬる人の数多き 面影偲び涙する我」 と読めます。
その傍らには 「柳津町立西山小学校 高森分校 僻地集会所新築工事」 の看板も見えます。
実はほとんど記憶にはなかったのですが、「あぁこんな山奥に生活している人たちがいるのだ」と驚き感動したのをおぼろげながら思い出しました。
「過疎」が言われて久しくなります。
44年前もそうだったのだから今はどうなっているのだろう?今回行ってみました。
背後の崖の様子からするとこのあたりを撮ったようです。
地元の76歳の男性に話を聞きました。ぼくが訪れた1972年秋の翌年に分校は閉鎖されて「公民館」ができ、現在の建物は2001年に建て替えられたものだそうです。咲いている桜は分校時代のものです。
1977年頃までは21戸あったが今では9戸になってしまったそうです。
ここの仕事は林業が中心で、1970年頃は「博士山」の木の切り出しで忙しかったが、今は山が安くなってしまい林業はダメだと言う。
白墨の書き主は判明しなかったけれども、相変わらず悩みながら暮らしている人たちが多いことはよく分かりました。
狭い平地にぽつんぽつんと建物が点在しています。立派な「公民館」とその脇に立つ携帯電話の無線塔が現代を象徴しているようです。
この日は「西山温泉」に行き立ち寄り湯に入って、どこかで車中泊、と思っていたのですがクラッとして宿泊してしまいました。
いつもの一畳ちょっとのスペースの寝室兼、キッチン&ダイニング兼、仕事部屋から急に八畳間に暮らすことになって、その広さに戸惑い落ち着きませんでした。
「混浴露天風呂」の女性専用時間が19時から21時までと決まっていたのですが 「今日はお一人ですからいつでもお入り下さってもいいですよ」 の女将の声に、嬉しいような悲しいような…
まぁ慣れないことはやるもんじゃありません。
翌日は高森、博士山周辺の林道を走ってみました。林道と言ってもかつてのような砂利道ではありません。どこも舗装がされて中にはこんな立派な二車線の道が山の中を走っています。
交通量はほとんど、いや全くなく、一体何のためにこんな高規格の道が…と思うほどです。更に驚くことは、林道周辺の山は皆伐されてはげ山になっています。その後の植林もなされておらず今後どうなるのでしょうか?道路周辺の法面もそのままですから土砂崩壊が起きて道路が使えなくなる可能性も高いのではないでしょうか。
どうも、「林業振興」の名の下に公共事業費を大量につぎ込んで必要もない高規格道路を造った。儲かったのは土建業者だし、林業業者もここぞとばかりにやりたい放題の伐採をしてしまったのでしょう。
大きな災害が来たらば、全く無防備なこんな道路はひとたまりもないでしょう。いや、使い捨ての道路で一向に構わないのかもしれません、真面目にメインテナンスするつもりもないのでしょう。何しろ道路を造ることが目的なのでしょうからね。
この基幹林道はかなりの長さがありました。山の中にこんな道路を通すには巨額の経費がかかったことと思います。一体、道路建設にいくらかかり、材木の価格が下がっている林業でどのくらい利益が出たのでしょうか?多分、道路など造らずに林業保証に当てて、山林を整備して山を保全する方がよっぽどよかったと思いますよ。
全く摩訶不思議な役所仕事が行われています。普段人の目に触れない山の中に入ると面白いものも見えてきます。
気分直しに、最後は木賊温泉です。
川沿いにある岩風呂で村の共同浴場です。入り口にある赤い箱に200円入れて、入らせてもらいます。
1970年代後半、蒸気機関車がなくなっても山道を走るために何度か会津に行きこの温泉にも入りました。近くの宿に泊まり、夜入りに来ると女子高生と一緒になったり、甘酸っぱい想い出もあります。
小さな峠を越えると湯ノ花温泉。こぶしと桜が咲いていました。
この後、田代山林道を抜けて湯西川へと思ったのですが、残念、いくら何でも4月ではまだ雪があって通れません。6月にならなければ、との地元の方の話に「里では春真っ盛りだけれども、そう言えば1500m以上だからなぁ」と山道の怖さ、奥深さを再認識しました。
おとなしく山王峠を越えて121号線で帰ります。