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今回は埼玉県南部、大宮から西に向かい川越を通り、八高線の高麗川を結ぶ「川越線」に行ってきました。

大宮から高麗川まで30.6Km、比較的平坦な関東平野をのんびりと走る典型的なローカル線でしたが、その最初の目的は東北本線と中央本線を東京を通らずにバイパスさせる「軍事的危機管理」から必要とされて建設されたものです。開通も1940(昭和15)年と比較的新しく「亜細亜太平洋戦争」の開戦には間に合っていましたが、果たして役に立ったのでしょうか。

 

なお、沿線の“大都市”、江戸時代の城下町であり「小江戸」とも呼ばれた川越市は、1914年には池袋から「東上鉄道」が開通し、1927年には「西武鉄道」の運転も始まり、そちらが東京連絡のメインルートとなっていました。

 

ぼくが撮影に行っていた1960年代後半には、一日に7〜8往復ぐらいでしたか、比較的頻繁な貨物列車の運転があり、牽引機は大正生まれの古豪9600型。また、朝は高麗川を6:27に出て大宮着が7:28、夕方大宮を17:30発で高麗川に18:32着の一往復の旅客列車が設定されていました。この列車は朝夕の通勤通学輸送に対処するために7両の客車を使って蒸気機関車が 牽引するものでした。

と言うのも、短時間に集中する乗客のためだけに気動車を多数用意するのは不経済、ということで単価の安い使い古しの客車を使う蒸機牽引列車が生き延びていたのです。

ですから、昼間は一時間に一本程度(川越までは30分に一本程度)、一両から三両ぐらいの短い編成の列車がのんびりと走る典型的なローカル線でした。川越市付近を除けば住宅も少なく、田圃と畑が拡がり、あちこちに森が残り「武蔵野」の面影を残していました。

 

今回50年ぶりの再訪。もちろん、大宮バイパスや関越自動車道を走るときに沿線の様子はちらりと見ていましたから予想はしていました。また、ここは首都圏ですから住宅需要の急増によって宅地化が進んでいるのは想像できました。半世紀ですからね、それはそうでしょう。

しかし、目の当たりにすると… 凄いものですね。

 

沿線人口急増の理由の一つは、川越から大宮、池袋、新宿を通り新木場まで繫がった「埼京線」の存在が大きいでしょう。もう30年前、1985年の電化完成と同時に運転が始まったもので、今では10両編成の長大電車が20分間隔で走っています。

かつては大宮〜川越〜高麗川を結ぶ川越線だったのですが、現在は川越を境にして列車の運行が二つに完全に分かれています。前述の川越から東に向かう列車は「埼京線・川越線」と呼ばれ、西に向かう列車は1996年に電化されて、半数ほどは八王子まで乗り入れて「川越線・八高線」と言われています。こちらはさすがに4両編成の短い列車で30分間隔です。ドアの開閉は停車してから乗客がボタンを押して開けるもので、こんなところにもローカル色が溢れています。

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1965年3月29日
日進〜指扇  79665 812レ

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1965年3月29日
日進〜指扇  79665 812レ

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2016年6月10日
日進〜指扇

最初の2カットは、初めて川越線に行ったときのものです。朝の旅客列車を撮ろうと早起きをして行ったはずです。今、当時の時刻表を見てみると、我が家近くの「玉電」の駅を5:20に出て、渋谷、池袋、赤羽で乗り換えて6:40頃に大宮着。6:50の川越線列車で6:55に日進に到着して、7:22の列車を撮影、というような具合だったようです。所要時間1時間半ちょっと、現在では一時間で行けそうです、便利になりました。

 

さて、辺り一面田圃が拡がり好きな場所から撮影できたのですが、今では住宅が密集して不可能です。撮影した場所は下のパノラマ写真の右手住宅街の奥です。

一番上のカットの左に見える小さな土橋が、パノラマの左の青い橋。二番目のカットに写っている鉄橋がパノラマのグレイの鉄橋でしょう。

川幅が広くなり大きく変わっています。都市化が進み、地面がコンクリートで覆われて降った雨はほとんど地表を流れて川に注いでしまい、河川の容量を大きくしないと洪水が起こるからでしょうか。農業用水として大切に使われていた小川が今や厄介者になってしまっています。

 

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1965年3月29日 79665 812レ
2016年6月10日

日進〜指扇

列車をやり過ごして後追いで撮影しました。オリジナルポイントはもっと左手で住宅街の中でしょう。ここから駅周辺まで、住宅がずっと並んでいます。

上の写真の真ん中に見える道、線路にぶつかり四本の杭が立っている道は現在もあり確認できました。

 

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1965年3月29日 キハ35
2016年6月10日

日進〜指扇

前の写真の上、杭の立っているあたりです。キロポストが同じ位置にあります。

かつては線路脇の小道(「犬走り」と呼ばれていました)は地元の人たちにとって大切な生活道路だったのですが、今ではそうはいきません。列車から警笛を鳴らされ、場合によっては停車してしまいます。

列車の来る合間を見て撮影しています、クワバラ、クワバラ……

 

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1966年9月28日 49649
2016年6月10日

日進〜指扇

日進駅付近から、望遠レンズで西大宮、指扇方面を見ています。勾配を下って平になっているあたりが先ほどの川、田圃があったところです。

 

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1966年6月19日 69636
2016年6月10日

日進〜指扇

前上のカットで遠方に見える森のあたりです。

 

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1966年9月28日 9600 821レ
2016年6月10日

日進〜指扇

前のカットの線路の反対側、日進寄です。オリジナルポイントはもっと右手ですが入れませんでした。

感度100のネオパンSSで撮影しています。ニッコールS50mm、F1.4で開放でしょう、収差だらけのレンズですが、味わいもありますね。

 

 

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1965年11月28日 59674
2016年6月10日

指扇

指扇駅付近、大宮側にある跨線橋からの撮影です。

 

 

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1965年11月28日 59674
2016年6月10日

指扇

同じく跨線橋を振り返って…

何もない、と言うよりも余計なものがない、邪魔なものがない、ことがこんなにも美しいことだと気が付きます。

 

 

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1966年9月28日 29680
2016年6月10日

指扇

指扇駅を出て南古谷方面へ、荒川の堤防に向かって上り勾配の築堤にかかります。

かつての田圃は中層集合住宅に代わっています。それはそうでしょう、新宿まで45分の駅近くの一等地ですから。

 

 

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1965年11月28日 29697
2016年6月10日

指扇

これは別の日の、前とほぼ同じ位置です。

オリジナルポイントは築堤の上の線路脇ですが… 今は無理です。

 

 

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1966年6月18日 59674 821レ
2016年6月10日

指扇

荒川の堤防の上の道路からです。指扇駅17:43発ですが、日が長い夏の時期ですからまだ十分に余裕があります。

 

 

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1966年6月18日 59674 821レ
2016年6月10日

指扇

振り返ると… 広い河川敷が拡がり、その中を、築堤が伸びています。

 

 

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1965年11月28日 19604
2016年6月11日

指扇

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2016年6月11日

指扇

秋の夕暮れです、何もなくて良いですね。

オリジナルポイントは一番下のカットですが、そうも行かないので線路の反対側で撮りました。

 

 

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2016年6月11日

指扇

何もなかった河川敷でしたが、今では高校の運動場が拡がり、若い声が響き渡っています。

 

 

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1966年9月29日 79665 821レ
2016年6月10日

日進

夕方の日進駅に戻ってきました。

大宮の隣駅で、当時もここからは市街地が続いていました。近くに工場もあったからでしょうか乗降客も多く活気のある駅でした。

 

 

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1966年9月29日 79665 821レ
2016年6月10日

日進

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1966年9月29日 79665 821レ
2016年6月10日

日進

コメントは必要ないでしょう。

我々の生活で、生きていく上で、何を大切にしたらばよいか、どう考えたらばよいのか、見えてくるような気がします。

 

 

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1966年9月29日 29680
2016年6月10日

日進

暗くなってきました。

 

家に帰るのも面倒なので荒川の河川敷の大きな駐車場で車中泊をしました。

さすがに首都圏ですね、23時過ぎに巡回のパトカーが来てしつこい職質をされました。

警職法も刑事訴訟法も知らない(本当に勉強していないのかね、知らないのかね)若い警察官がバカな質問をするので無視して寝ていたらばそのうちに帰って行きました。

しかし、1時過ぎにまた別の一台のパトカー。「さっき来たぞ。引き継ぎぐらいちゃんとやれよな」と言うと帰りましたが、お陰で寝不足になり、困ったものです。

 

寝不足で撮影した写真は次回です、お待ち下さい。

 

 

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