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「長旅」の後ようやく着いた中山宿で撮った最初の写真 221レ 1963年12月21日

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 子供も頃から旅は憧れだった。知らないところへ、遠くへ行ってみたいと願っていたが、父親は高度経済成長時代の企業戦士で仕事に忙しくそれどころではなかった。

 我が家では、一人旅が許されたのは高校生になってから。初めて汽車を撮りに泊まりがけで出かけたのは高校一年の冬休みだ。磐越西線のD50と新津のC51が見たくて東北本線、磐越西線、上越線をぐるっと回ってくる2泊3日の"大旅行"を計画した。今のように情報が溢れている時代ではなく、どこに行ったらば良いかも皆目分からなかったが、スィッチバックが有る中山宿に注目した。

 当時の「鉄道ピクトリアル」に載っていた庄野鉄司氏の写真にも刺激され、第一目的地は中山宿と決定。急行「第1ばんだい」で朝6時55分に上野を発ち、岩代熱海で各停に乗り換えて中山宿には昼の12時に到着、ずいぶんと遠くまで来てしまったと思ったものだ。  

 駅構内だけでもいろいろなアングルが有るのがスィッチバックの面白さ。この時から高校を卒業して浪人時代までの足掛け4年間で5回の訪問をはたすことになる。本格的な鉄道写真に初めて接したところ、この駅は僕にとって鉄道写真の原点とも言えるところだ。

 二度目の訪問は翌1964年3月の春休み。この時は上野23時40分発の「第3ばんだい」、生まれて初めての夜行列車の堅い座席の上でほとんど眠れなかったはずだ。岩代熱海4時31着、各停の始発を待って5時57分中山宿に到着した。

 天気は一日中雪模様、慣れぬ寝不足で雪の上に座ったまま居眠りをしてしまうほど。その晩は駅舎に泊めてもらい、もう一日滞在。翌朝は眩いばかりの雪晴れとなり、峠方面へ2〜3km歩き築堤付近で撮影をした。

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25‰を登る貨物列車。カマの調子が悪いのか、かなりカットオフを伸ばして喘ぎながらやって来た
岩代熱海〜中山宿 64年3月14日

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翌朝は上天気。朝日を受けてD50が走る
中山宿 64年3月15日

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後補機を従えて来たのだが残念ながら煙に隠れてしまった。国道49号線は未舗装、交通量も少ない
中山宿〜沼上 64年3月15日

 高校3年の秋、東北支社管内の蒸機の火の粉止めが外されるのを待って10月末に三度目の訪問。あいにく天気は悪く冷たい雨の降る一日だった。

 当時はご同業と出会うことは滅多になかったのだが、この日は慶応大学の学生さんとご一緒した。お互いに名前は名のらなかったが、最近になって発表されたものを拝見してS氏だったことが分かり感慨無量。

 この時も駅舎に泊めてもらい翌日も撮影。

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上り勾配に備えてボイラーの水を十分に持ち圧力を上げる。しかし対向列車が遅れて発車時間が延びると缶圧力は上がりすぎ安全弁が吹き始める。
インジェクターで注水するのだが、うまくかからないとキャブの下は蒸機だらけになってしまう。 静かな雨の日の午後、安全弁と注水音が響く
中山宿 65年10月31日

 四度目の訪問は高校3年の春休み、と言うよりは大学受験のために授業が切り上げられて休みになった2月のことだ。受験を直前に控えて勉強でもしなさいという学校の親心なのだが、こちらはそれどころではない、電化を控えてポールが建ちはしまいかと気が気ではない時期だ。かくして、気分が落ち着かなければ受験どころではないと親を説得して?前後夜行二泊、中一泊の二日撮影日で磐越西線に出かけている。この時は一日を磐梯町周辺で撮影し中山宿は一日だけだった。

 心配したポールもなく、D50たちも元気に働いていて安心して帰京して受験勉強に励んだのだが、何故か?失敗してもう一年の浪人生活を送ることになる。

 まぁ、世の中舐めたらアカン、と言うことだろう。

 鉄道雑誌を見ると電化に向けて着々と工事が進んでいるようだ。もう終わってしまったと納得しようと思うのだがなかなかそうはいかない。

 凝りもせずの五度目の訪問は次の秋以降、なにしろ東北支社管内は春から秋まで煙突の上に火の粉止め(いわゆるクルクルパー)を付けているのでこれを敬遠、晩秋まで待たなければならなかった。

 さすがに2月はまずかろうと思い、12月末に行っている。この時にはすでにほとんどの所にポールが建ち並び、架線も張り始めていて写真が撮れる状況ではなくなっていた。わずかに残るポールが建っていないところで撮影し、カマの息づかいを聞き、スィッチバックの音の動きを楽しんで最後の別れを告げてきた。

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夜明け前、まだ薄暗い中山宿駅に到着したD50368牽引、始発223レ
中山宿 66年2月5日

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勾配を下ってくる上り1222列車。こうして見ると随分と広い構内を持った駅だったことがよく分かる
中山宿 66年2月5日

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タブレットを受け取る通過列車。
磐梯熱海(1964年に岩代熱海から改称)から戸までほとんどの貨物列車には補機が付いた。
前二両の重連になることはめったになく後補機だったが、この補機の回送が頻繁にあった

中山宿 66年2月5日

 

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引き揚げ線から発車して信号扱い書を通過する233レ。燃焼状態も良く快調そうだ 

中山宿 66年2月5日

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対向列車、追い越し列車待ちで長時間停車の回送補機

中山宿 66年2月5日

 「旅は僕の学校だった」という文章を以前ある雑誌に書いたことがあるのだが、本当にそうだったなあと今でも思うことがある。

 高校は大学受験では有名な進学校に入ったのだが、どうもなじめなかった。こちらが勉強もできない劣等生だったことが大きな原因だったのだろうが、多くの級友たちにも教師にも違和感を抱き続けていた。授業をさぼり撮影に行くことばかり考えていた高校生活だったが、そうして出かけた旅先で教えてもらったことは実に多かった。

 生意気盛りの青春時代(今もそうだと言うのは誰だ!)、世の中のことは大体分かってしまった、と思っていたのだが、分かったつもりは都市の中産階級のごく狭い世界だけ、地方に行けば全く違う生き方があることを実感として教えられたのは旅をしたお陰だと今でも思っている。挨拶のしかたから始まって見知らぬ人との接し方、家や学校では習わなかったことを随分たくさん教えていただいた。

 中山宿では最初に訪ねたときに、「宿はないか」と聞くと、「ここにはないが、隣の上戸にはある」と教えられ、一泊450円のおばあさんがやっている商人宿に泊まった。二度目の時も上戸の宿に泊まろうと思っていたのだが、駅舎の休憩室が空いているから泊まっていきなさいと言っていただき、ご厚意に甘えることになった。駅構内での撮影でも列車を待っている間は信号扱い所にお世話になり休んでいた。秋に行った時には食用菊を大量に出されて、酒も飲まない高校生は独特の味覚に困ってしまったが、何かと世話を焼いていただき親切にしていただいた。僕の方もできる限りのことをしたつもりだが、当然、今考えれば十分ではなかったはずだ。

 時はSLブームとやらの前の話、汽車を撮っていても「こんなもの撮ってどうするのだ?」と言われたころ。わけの分からなかった子供は良い大人たちに出会い、今も相変わらず旅を続けている。 たくさんの良い出会いに感謝するほかはない。

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もう40年近くになるのですが皆さんお元気でしょうか                                    タブレットの送受器。タブレットや信号、ポイントの切り替えなどの運転関係の扱いは全てクロッシング近くのこの信号扱い所で行64年3月14日                                                       われていた

                                                             66年12月29日

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構内外れにあった駅本屋。出改札などの接客業務扱いだけ、職員の数も多く良い時代だった。僕にとって、帰路につく前に撮影した最後のカット

66年12月29日

以上が「Jトレイン」Vol.11(2003年6月刊)に掲載したものです

以下に写真、文章を追加します

 

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上戸の駅員さん。

「中山宿」という駅名だったので「宿」はあるだろうと思ったのは子供ならではの浅薄さ。中山宿の駅員さんは「隣の岩代熱海に行けば温泉宿はたくさんあるが、高くて... 」と、

反対側の隣駅、上戸にある商人宿を教えてくれた。早速、鉄道電話で上戸駅に連絡して駅員さんが歩いて3,4分の「白河屋」に行き都合を聞いてくれた。

お陰で、日が暮れてから上戸駅に行き宿に着くと、おばあさんが待っていて、五右衛門風呂が湧いていて食事が用意されていた。

ふすまで仕切られた小さな部屋、廊下との仕切りは障子が一枚。寒いすきま風が入ってくるが、こたつに足を突っ込みどてらを着て寝れば快適な宿だった。

それまでの一人旅の宿はユースホステルだったので、初めての「旅館」体験、なにか急に大人になった気分だった。

翌朝はうっすらと雪が積もり一面の銀世界、急いで駅に行き撮影させていただく。昨日お世話になった駅員さんの記念撮影もさせていただいた。

補機の回送も有り、運転扱いは比較的忙しい駅だと思う。駅長さん、運輸係、旅客係、小荷物係の4人体制で勤務していたようだ。もちろん今は無人駅となっている

上戸 63年12月22日

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始発列車。二度目の訪問、1日目は終日雪が降り続く厳しい一日だった。駅本屋の休憩室で駅員さんと一緒に泊めてもらい前夜の夜行列車の眼不足も解消した。
翌朝は、多分よく眠っていたのだろう、駅員さんは親心で起こさないでくれたのだが、汽笛の音で目が覚めて慌てて外に飛び出すと目の前で列車が動き出していた。

この日は降雪のために始発列車は「割減」と言って牽引定数を削減されたため前補機が付き重連になっていた

D51752+D50 215レ 中山宿 64年3月15日

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靴紐を結ぶ時間もなく、慌てて斜面を駆け上がると引き揚げ線から出発した列車に間に合った。これぞスィッチバックの良いところ!

D51752+D50 215レ 中山宿 64年3月15日

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中山宿の駅員さんたち。人数が多いのは、勤務交代時間でこれから仕事をする人、明けの人が重なったからだろう。右端駅長さんが持っている「オリンパス・ペン」が懐かしい

中山宿 64年3月15日

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峠側に2〜3kmほど行ったところにあった築堤

D50258+...+D51 281レ 中山宿 64年3月15日

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三度目の訪問。始発列車で着き、斜面を駆け上がって発車を撮る。この時はネオパンSSSを使っている。当時は粒子が荒れていやだと思っていたのだが、今見てみるとなかなか良い味を出しているではないか

D50256 223レ 中山宿 65年10月31日

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引き揚げ線に進入した上り224レの脇を駆け抜けるD50重連貨物列車。何日も撮っていたのだがD50の重連を見たのはこの時だけだった

D50256 224レ、D50253+D50 中山宿 65年10月31日

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後補機の仕業が多く、前補機になることは滅多に無かったように思う。不意を突かれて慌ててしまって、せっかくのチャンスを上手くいかせなかった残念な想いがある

D50253+D50 中山宿 65年10月31日

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前のカットの前補機が回送されて今度は後補機でやって来た。冷たい雨の中、白煙が印象的だ。隣は国道49号線、未舗装なのは当たり前、よく見ると道の真ん中に柵があったり、今では考えられないような光景だ

D50253 中山宿 65年10月31日

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一日中土砂降りだったが、せっかく来たのだからと、遅くまで撮影をしていた。トライXは高くて手が届かず、ネオパンSSを常用。
Sニッコール 50mm F1.4 を使っていたが今の水準からすれば良い玉ではない、これでも一絞りは絞って F2.0 で撮っているはずだ。光源の柔らかな描写がニッコールらしい

D50256+...+D50253 中山宿 65年10月31日

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旧制プレートは...いいなぁ

D5135 中山宿 65年11月1日

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四度目の訪問、この日も一日雪が降る天候だった。残念ながら磐越西線では天候には恵まれなかったのだが、こうしてみると悪条件の中での写真も味があるのかな、と思うことがある

D50377 1222レ 中山宿 66年2月5日

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ひどい雪だ。しかし、右手に見える信号扱い所に逃げ込めばストーブが有りぬれた機材や衣服を乾かすことが出来た。列車の接近は分かるし、何とも贅沢な撮影だった

D51868+...+D51197 中山宿 66年2月5日

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雪が小降りになって、峠方向に数百メートルの築堤に行った。スィッチバックの駅は廃止されて、現在はこの近くに新駅が造られている

D51435 227レ 中山宿 66年2月5日

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化粧煙突、蒸機溜、砂溜の絶妙な形状がこのD50の魅力だろうか

D50253 2274レ 中山宿 66年2月5日

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最後の訪問。仲良くなった補機の乗務員さんに頼んで、磐梯熱海〜上戸間を何度か往復した。ごらんのように電化ポールが建ち始め、D50は全滅してD51に置き換わっていて、写真どころではなく、そっと別れを告げてきた

D51110 277レ後補機 中山宿 66年12月28日

汽車旅のかたち

 最初の汽車旅、中山宿に行ってから、もう50年が経ってしまった。本文にも書いたが当時は上野から急行を乗り継いで5,6時間の旅だったが、今では新幹線乗り継ぎで1時間50分ほどで到達できるようになった。それは“文明の進歩”なのだろうが“旅文化”としてはどうなのだろう?仕事で”移動”するには便利この上ないのだが、“旅”は移動とは異なり目的地に着くまでの過程こそが大切なのではと思う。いや、しかし、“旅”そのものが大きく変わってきてしまっているのも事実だ。

 ぼくは汽車旅を、撮影を、楽しむ時に大切な要素は「窓が開くこと」「自由に駅構内に立ち入れること」の二点ではないかと思っている。まぁ後者は撮影にとっては重要なことだが、汽車旅ではあまり関係がないかもしれないが、「窓が開くこと」はとても大切なことではないだろうか。カメラを外に出し自由に撮影できるだけではなく、吹き込んでくる風や匂いを感じることは、エアコンの効いた快適な車内から窓で切り取られた風景を眺めているより、何十倍か情報が詰まっていて、精神的に遙かに健康的ではないだろうか。

 もちろん旅をする動機によってそれぞれ違うのだろうが、ぼくの旅のかたちはこの50年間あまり変わらないので、だんだん旅がしづらくなってきた。

 今から50年後、21世紀後半に次のような文章が現れてきたとしても驚くことはないのかもしれない。

 

 『最近、20世紀の鉄道記事を見つけて驚いた。当時は“旅“なる言葉、概念があったようだ。目的よりも過程を大切にする文化とか言っているのだが理解が出来ない。今、我々が使っている“トランスポート”という言葉に近いもののようだが、内容は大分異なっている。車

両には窓なるものが有って、外を眺めたり、中にはその窓が開き体を出すことが出来たと言う。そんなことをしたらば、落ち着いて座っていられないし、映像ディバイスが見られなく

 

なってしまい、食事も満足にとれやしない、車内は大混乱になるのではないかと思うのだが、そうではなかったようだ。

 今は目的地にいかに速く到達するかが問題で、移動中の車内は快適に過ごせることが第一、窓を通して外を見ようとする人はいない。見たければ3Dで撮影した最高条件の映像がいくらでもあるし、凡庸な風景など見る人はいないはずだ。目的地に早く到着して、そこでの時間を楽しむのが大切なのだから、途中がどうというのは問題外だ、“旅”なる概念は何ともふしぎな発想である。』

 

 いや、これは冗談ではないだろう。今でも新幹線に乗ってご覧なさい、窓外を眺めている人の少ないことに気付くはずだ。

 最高速度も110km、210km、300km...... 今度のリニアでは500km/hだとか。そう航空機ですね。そういえば、最近飛行機に乗っていて困るのは、窓のシェードを下ろさせられることだ。地上の景色が見えるときはもちろん、見えなくても雲の動きをボーッと見ていたいのだが、「お客様、他の方々の映画鑑賞に影響しますのでシェードをお閉め下さい」と言われてしまう。かくして機内は昼間だというのに真っ暗け、他にやることがないのでついつい酒量が増えてしまう、困ったもんだ。多分、鉄道旅も近い将来そうなるにちがいない。

 かつて旅をするのに列車の選択肢が多様に有った。特急、急行、準急、各停。長距離列車、夜行も数多く走っていて、その数だけ汽車旅の楽しさがあったと思う。今は新幹線と短距離の各停列車だけが幅を利かせて、夜行列車など風前の灯火だ。

 もちろん、50年後に生きていて確かめることは出来ないのだが、この50年で経験した汽車旅の変化を考えると、あながち見当外れではないと思う。

 進歩とは一体何なのだろう。

磐越西線・中山宿 ......完   2014年5月1日

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