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19レ急客「いわて」 本務C61と後補機D51で現車13両を押し上げる。
この日は本務機次位に回送の寝台車が連結されていてプラス1両で14両、牽引定数一杯ではないだろうか
御堂〜奥中山 64年3月23日

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軽やかに勾配を下ってくる2D「はつかり」 御堂〜奥中山間、7.1kmは線路容量を確保するために早くから複線化されていた。
谷が広く工事がしやすかったこともあるのだろう、峠の反対側の奥中山〜小繋間、7.8kmが長い間単線で途中に信号場を設けて対処していたのとは対照的、伸びやかな景観だ
御堂〜奥中山 64年3月23日

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吉谷地の大カーブを上ってくるC60牽引の各停列車, 勾配区間の低速各停仕業ではボイラー容量よりも勾配上での停車の際の再牽き出し粘着性能で牽引定数は決まり、
23.8‰勾配でC形式の最大牽引定数は25、6車位ではなかっただろうか、オハ、スハ級で現車7両といったところだ。
それにしてもポールの無い複線非電化区間は美しい
御堂〜奥中山 64年3月22日

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待ちに待った三重連が来たのだが、悲しいかな準備ができていない。慌てて撮っているので今一つだ
御堂〜奥中山 64年3月23日

分水嶺の向こう側、奥の峠

 「奥中山」…、中山と言うだけでも趣のある地名なのに更に奥と言う冠が付くこの地を初めて知ったのは僕が高校一年の時、63年の秋だった。"悪"友の持っていた「鉄道ファン」のバックナンバーの撮影地ガイドに掲載されていた臼井茂信氏撮影の見開きページの写真は、雨中の勾配を上る三台の機関車。凄まじいその姿はあたかも龍のようだ、と書かれていたように憶えている。  神秘的な「奥中山」と言う地名、激しい「三重連」、その頃僕はまだ白河の関を越えたこともなく、遥か彼方の東北の深山幽谷の峠で繰り広げられているという幻想的な「三重連」とやらに大きく心を動かされ、行ったことの無い北への憧れを益々強くしていった。

  峠とは不思議なものだ。風と風が掌を合わせるように出会いの場所でもあるし、反面、生活文化を隔てる衝立でもあって異文化は峠を越えてやって来る。曲がりくねった山道を登り詰めて下りにかかる所、「山」に「上・下」とは実に良く出来た文字だ。

 しかし、交通機関、鉄道にとって峠とは厄介なもの、盛岡から八戸へ抜ける東北本線は奥中山駅の北側約1.5kmの十三本木峠で山越えをしているが、南からは御堂、北からは小鳥谷からそれぞれ約10km、峠に向かって最急勾配23.8‰の上りが続いている。怒る方がいるのを覚悟して言うが、実際の運転は大変なのだが趣味として見るとこれほど面白いものはなかなか無い。

 僕は車で山道を運転するのが好きなのだが、峠の下を抜けるトンネルが出来ても旧道の曲がりくねった峠道を走るほうが面白く、苦労しただけ得るものも多いと思っている。個人の趣味感と公共交通機関を同列に論じるつもりはないのだが、こと"趣味"とは本来無責任なものだし、列車に乗っている人も味気ないトンネルよりは時間はかかってものんびりと走ってみたいと思う人だって少なくないはずだ。

 ちょっと脱線してしまったが、前述の三重連も輸送量の大きな幹線で長い勾配区間が無ければ生まれて来なかったもの、鉄道趣味としては厳しい地形に感謝しなければいけないだろう。峠とは有り難く面白いものだ。

 今回原稿を書こうと調べものをしていて面白いことに気が付いた。奥中山は行政区分では一戸町に属している。実は僕の知識では先程も書いたように峠は奥中山駅の北側に有り、奥中山は南側の盛岡文化圏の岩手町に属していると思っていたのだ。実際は北側の八戸文化圏の一戸町、地図で確認してみると町境は十三本木峠ではなく奥中山駅のすぐ南の鉄道がトンネルで抜ける山の上に敷かれていたのだ。ということは有名な撮影地の吉谷地付近の大カーブは奥中山ではなく、正確に言えば岩手町の御堂だったわけだ。

 更に地図を子細に見てみると、鉄道のサミットは確かに十三本木峠なのだが、御堂から南に流れ、石巻で太平洋に注ぐ東北随一の大河北上川と、一戸の谷に沿って八戸から太平洋に注ぐ馬渕川の水域の分水嶺がこの町境そのものであったのだ。十三本木峠は実は馬渕川の水域の中の小さなピークの一つで連続した分水嶺とはなっていないのだ。

 先程峠は面白いと書いたばかりだが、分水嶺も示唆に富み不思議で面白いものだ。空から降って来た雨粒の落ちた場所が、高みの右か左かの別れで全く違う結果が出してしまう。物事や人生でもいくつもの分水嶺が有ったはずで、最初のわずかな違いがその後の複雑な結果や人生そのものを決めていってしまうものだ。

 ところで、実際の生活感覚からすれば生活に密着した水の配分が決まる分水嶺は大きな意味を持っていたのではないだろうか。経済圏の大きな盛岡側から見れば奥中山は分水嶺の向こう側、確かに「奥」である、ゆかしい名前の由来が何となく分かったような気がした。

初めての奥中山

 この奥中山の三重連を知った翌春、僕は大東北旅行を決行した。12日間の東北均一周遊券を握りしめ木賃宿に泊まったのが一晩だけ、後の10泊は夜行列車の硬い座席で夢を結ぶ。現在とは物価が違うから直接の比較にならないだろうが宿泊、食費が総額2,100円、学割で2,400円だった均一周遊と合わせても5,000円かからなかったのを憶えている。

 実は僕にとってこの旅が初めて本格的な鉄道撮影旅行だった。それまでは乗り物全体が好き、どちらかといえば撮影対象は飛行機主体の「飛行少年」だったのだが、この時を機会に急激に蒸機にのめり込んでいったのだ。今考えてみると、この旅は僕にとって大きな分水嶺を越えた時でもあったのだ。

 この時の旅は磐越西線の中山宿から始めて、奥羽本線撫牛子、米坂線、羽越本線温海、本命の東北本線は好摩、渋民、滝沢、最後に奥中山という順番だった。手にしていた機材は35ミリ一眼レフに標準50mm、200mm(なにしろ飛行機用だったものですから)の2本のレンズだけ。今考えれば随分と身軽だったわけだ。

 当時のネガを探してみるとネオパンSS 、36枚撮りを計11本撮っていて、 1日ほぼ1本平均。仙台、盛岡、青森を始め主要駅で列車を乗り換え写真を撮る機会は十分に有ったはずだが、この頃は駅間の走り写真を中心に撮り、駅で撮るなぞ潔くないと考えていたので、駅のホームで撮った写真は数少ない。

 今思えばもっと撮っておけばよかったと反省するのだが、変な潔癖症だけでなくフイルム代も高く、そうやたらに撮ることもできなかったという事情ももちろんある。なにしろ福島県の中山宿の夕方のカットの次のコマは、青森県の奥羽本線撫牛子のホームに五能線に向かう8620が牽く各停列車が入ってくる、というもので、途中の郡山も仙台も青森も蒸機がゴロゴロいたのだが一カットもない状態だ。

 それにしても今ネガを見返してみると、数少ない駅で撮った写真に当時の生活風俗がよく描写されていて、なおのこともっと撮っておけばよかったと痛感する。過ぎ去ったものは何としても取り返しがつかないものだ。

 ちゃんとした記録もはっきりした記憶もないのだが、盛岡以北で撮影していた時の行程は、夕方盛岡から仙台行きのDC急行で小牛田まで行き、対向の21時半頃発車するする上野発青森行きの各停列車を捕まえて朝4時前に一戸で降りる。この間が就寝時間、座れない事はなかったが、熟睡できるはずもなく、ただ若かっただけで出来たことだ。 5時過ぎの一戸始発で盛岡方面に戻り、好摩なり奥中山に降りて撮影するというパターンだったようだ。

 撮影地ガイドなどほとんど無く、駅に降りると良い撮影地がないものかと、ともかく歩き始める。あのカーブを抜けたらば、あの林を抜けたらば、とひたすら歩くのだが、なかなか良い場所は無い。 ダイヤなぞ持っているわけはなく、交通公社の時刻表が唯一の情報源。貨物列車は来た列車を撮るだけ、とは言え次々に来るのでそう長い間待っていることもなく、列車速度も遅く、かなり前から接近音が聞こえてきて準備ができるので困る事はそうなかった。しかし肝心の三重連はいつ来るとも分からず、次がそうだろ次こそは、とひたすら待つしかなかった。蒸機3両での運転は結構多いのだが、前重連に後補機というケースが多く、三重連になる本数はそれほど多くなく、この時はあまり良く撮れてはいない。

 当時のD51の最大の換算牽引定数は35車ぐらいだったと思う。 20km/hをわずかに超える低い均衡速度で、オハ、スハ級客車を8〜9両を持って喘ぎながら上ってくる各停列車、 3台の蒸機で長編成の1,000トンを押し上げてくる貨物列車。 C61+C60にD51の補機を従えて明らかに他の貨物よりは早い均衡速度で上がってくるコンテナ貨物は、牽引重量を下げて速度を重視した列車設定だったのだろう。C形式の重連、又はC形式+D51補機の急客も均衡速度は高く、長い編成と共に迫力はあった。  現在と違ってまだ輸送の主役だった鉄道。しかし盛岡以北はほとんどがまだ単線で、首都圏と北海道を結ぶ役目の大きい太いパイプが実は目の前の頼りなげな二本のレールとは、にわかには信じられなかった。1958年10月から本格化したという蒸機3両による1,000トン輸送、少ない線路容量を最大限に活かして使おうとした知恵でもあり、元気に働いていた鉄道の象徴でもあったのかもしれない。

 写真はあまりうまく撮れなかったが楽しかった。3両のカマが、たとえ同じ形式のD51ばかりだとしても、各機関車の車輪径がタイヤの摩耗などで微妙に異なり、ブラストは同期したり外れたりと絡み合うようにリエゾンを作る音は、たとえようもなく美しかったと思う。

 実は今から数年前、ドイツで勾配区間を本気で走る3両のカマ、 2シリンダーの01.3シリンダーの01 、車輪径の小さい38のブラストを聞いた時、遙か昔の奥中山をジン思い出したのだが、考えてみると長い勾配区間を本気で上がる仕業がない限り、この絶妙の音楽を聴ける機会は無いはずだ。

 この旅の思い出は色々有るのだが、今でも忘れられない光景が一つある。ちょうど春休みで就職シーズンだったのだが、夕方の盛岡駅頭で僕よりほんのちょっと年上の高卒の青年が、たくさんの友人たちに見送られて上野行きの夜行列車で旅立つ情景に出会った時だ。涙する者、絶叫する者、「頑張れよ木村!」と言う声まで覚えているのだが、それは今まで僕が体験してきたものとは全く違う生活、生き方だった。同世代とはいえ、社会の荒波に身をもって乗り出していく姿を目の当たりにして、都会育ちの僕は言葉を失ってしまったのだ。この頃は結構生意気で(今でもそうだという声が聞こえてきそうだが……)世の中のことはほとんど分かったつもりいたのだが、実は分かったつもりは都会の中産階級の極く一部だけだった、ということに気が付いた時、旅の意味も面白さも再認識させられた。そういう意味でも、この旅は僕のもう一つの分水嶺でもあったのだと、今思い返している。

夏の夢、蛍の小川と「はくつる」ハドソン重連

 次に訪れたのは翌1965年7月半ば、高校3年の一学期の定期試験が終わって、なんとか担任を欺き学割を手に入れて、それっとばかりに終業式までの6日間で常磐、東北を回った時だ。 7月15日から17日まで好摩、滝沢、奥中山、それに青森の清水川で撮影している。”奥中山”の有名撮影地、吉谷地付近はこの時すでに直接電化用ではなかったが、通信線のためにコンクリートポールが建っていて、そこでの撮影は諦めている。なにしろ、架線の下での撮影なぞ論外、ポールが建ったら基本的には撮らない、としていたのだが、今考えるとちょっともったいないことをしてしまったと反省はしている。それにしても過ぎ去ったことは取り返しがつかない。

 撮ったのは駅南側のトンネル付近、駅から十三本木峠のトンネルにかけて区間。まだ梅雨の時期であまり満足な写真は撮れていないが、逆に夏の時期ではあっても湿気が多く、煙がよく見えているのはかえって良かったのかもしれない。

 このときの旅では、滝沢から小繋まで乗った夜の各停列車が、奥中山と小繋の間に当時あった西岳信号場で対向列車待避のためにスイッチバックの側線に入った時、開け放った窓の外を見ると真っ暗な信号場の脇を流れる小川が太い光の帯になっているのを見た。そう、蛍の乱舞、こんなにも大量のホタルを見たのは初めてそしてそれ以降もなく、それはまるで幻想的な夢のような情景だった。

 清水川は前年10月ダイヤ改正で誕生した「はくつる」を撮りたくて行ったところだ。 1965年1月号の「鉄道ファン」の巻頭の写真、これまた臼井茂信氏の「遥かなる旅の序章、青森駅頭の『はくつる』ハドソン重連」と題する写真は衝撃的だった。本務機の仙台区のC61、前補機が盛岡のC60、「はくつる」のヘッドマークを付けて夜の青森駅ホームの外れに静かにたたずむ姿、薄暗い書店の片隅でその写真を見た時、僕は身震いがするほど感動したのを今でもはっきり覚えている。

 「撮りたい」と思ったが残念なことに1965年3月のダイヤ改正で前補機は新鋭DD 51に変わってしまい、夢のような組み合わせは短命で終わってしまった、それでも未練があったのだろうか、ひょっとしたらばC60+C61で来ることもあるのではないかと淡い期待をしたのだろうか。はっきりとは覚えていないが、上り2D「はつかり」と交換のために運転停車するという清水川駅に行ってみた次第だ。結果は写真でご覧の通り、DD51+C61+20系の編成で「真夏の早朝の夢」の方はかなわなかった。

 翌1966年は大学受験浪人中で、御殿場、川越、電化間近の常磐や磐西には行っているのだが盛岡以北までは足を伸ばしていない。多少おとなしくしていたようだ。

 1967年は2年前とほぼ同じ7月半ばに一戸、小繋、滝沢に行っている。「ヨンサントウ」を一年後に控え、沿線は複線電化工事の真っ最中で、この時点ではまだ電化ポールの建っていなかった区間を見つけて撮影していたはずだ。特に一戸駅構内は広いヤードがあって撮りやすく、発車時に投炭をするので気温の高い夏でも煙が期待できることなどで気に入って朝から夕方まで撮影していた。ホーム外れの運転扱い所にお世話になり、列車ダイヤはもちろん機関車の運用も教えてもらいながらの実に気楽な撮影だったが、沿線での走行写真とはまた違った写真が撮れて面白かった。また、駅でのスナップなど鉄道写真の新たな側面を見つけたような気がして嬉しく、天気の良い暑い一日でシンダとススで体中を真っ黒にしながら夕方の涼しい風を感じるまで撮影できたのは良い思い出だ。

 この年の12月末、冬の北東北撮影行の途中再び一戸に行ったのが僕の東北本線盛岡以北蒸機撮影の最後になった。駅構内もボールが建ち始めていて一部制約があったが、まだかろうじて撮影はできた。最後に撮影したカットはD51+D51+FC+D51の発車を後追いで撮ったもの。今見直してみると去り行く蒸機を見送るような視点で、短かった邂逅に別れを告げるようなカットだった。それにしてもここ一戸で、列車密度が高い本線の構内で自由に撮れたことが今考えると不思議な気がする。

 少年時代の憧れの地、本州最北の地青森に初めて行くことができた北東北の旅は、先ほども書いたように僕の人生の分水嶺の一つでもあって想い出深い。だが電化準備までの期間が短く、我が写真技術も十分とは言えず、満足するほど写真が撮れたわけではなかった。しかし、東海道も山陽も間に合わなかった僕たちの世代にとって、最後の本格的な幹線蒸気列車を見ることができただけでも幸せだったと思う。

 写真には上手く残せなかったけれども、あの音や姿や匂いを時として懐かしく感じることがある。片思いの初恋を切なく想い出すように。

nagasaki

C61+C60重連の各停列車 各停が所定で重連になることはあまり無く、重連のどちらか一両は回送だったと思う。
短い編成ながら回送で三重連になったケースにも出会ったことがある
渋民〜滝沢 64年3月21日

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滝沢〜厨川間の旧線の隣にあった果樹農家の親父さん。
敷地の外れで列車の写真を撮っていたらば「写してくれよ」と声を掛けられて撮ったような気がする。
服装は上下とも日本陸軍の軍服だ。すでに敗戦後19年経っていた時だった。
ひょっとすると外地(満州)からの引き揚げ者だったのかもしれない、苦労して生活されている様子が手に取るように分かった

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分水嶺から奥中山を見る

奥中山 65年7月16日

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分水嶺の下のトンネルを抜けて奥中山駅に進入する貨物列車
奥中山 65年7月16日

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十三本木峠を越えて来た重連貨物列車
奥中山 65年7月16日

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2D「はつかり」と交換のため運転停車をする3レ「はくつる」
本務機C61は仙台から夜を徹して350余kmを走って来た、終着青森まではあと30km。
仙台〜青森間、388.3kmを6時間18分で走破するロングラン仕業。
当時の表定速度は61.6km/h、中でもC60+C61で駆け抜けた盛岡〜尻内間の58.9km/hは線路条件を考えれば立派な数字だ、
さぞや凄い運転だったのだろうと想像する、乗ってみたかった!
清水川 65年7月17日

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対向列車待ち
乗っていた列車を下りての撮影、発車合図があって汽笛が鳴ってからでも十分に客車に戻れた。
自動ドアでもなく発進加速の遅い蒸気列車の愉しいところだ
渋民 65年7月15日

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19レ急客「いわて」 緩勾配を上る堂々の13両編成、本務C61は張り切っているが盛岡から付いた後補機のD51はまだ本気では仕事をしていないようだ
好摩〜渋民 64年3月21日

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旧線の築堤を行く貨物列車、 煙が横に向くほど風の強い日。過酷な気象条件に苦しむのは鉄道ばかりではなく、広い果樹園を営む農家の生活は慎ましく厳しそうだった
滝沢〜厨川 64年3月21日

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十三本木峠サミットにかかる貨物列車 国道4号線の跨線橋の上で列車を待つ。谷を震わすブラストでカマは3両だと遠くから分かっていたが、カーブの影から現れたのは待望の三重連だ
奥中山〜西岳信号場 65年7月16日

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国道4号線の跨線橋からサミット側を見る トンネルを抜けてほっと一息、まとわりつく蒸気が今までの苦闘を物語っている  
奥中山〜西岳信号場 65年7月16日

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一戸駅を発車する上り貨物列車。2、3両目は盛んに投炭している、先頭は余裕があるのだろうか、3両とも安全弁を吹かすこともなくきれいな発進だ。
発車時には蒸気を大量に使うので発車直後のボイラー圧の低下に気を付けなくてはならない。「出下がり」と呼ぶが、連続上り勾配を前にしている時は取り返しが出来ず助士は苦労することになる。
発車前にきちんと火床を作り良い状態を保つような投炭が大切だ
一戸 67年7月16日

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ブレーキをきしませながら一戸駅構内に滑り込む下り貨物列車 補助前照灯のシールドビームさえなければ戦前のような光景だ
一戸 67年7月16日

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暑かった一日が終わり夕日に輝く 峠を越えてきた乗務員は冷たい水で火照った腕を拭う
一戸 67年7月16日

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早朝の三重連、 夏は気温が高くなり煙が見えない。特に助士の腕が良く完全燃焼していると、音はすれども…、で絵にはならない。
早朝の気温の低い時期を狙ったがこの時はまだASA400のトライXには手が届かず100のネオパンSSの時代、
露出が苦しく上がったネガは薄かったが現代の多諧調印画紙で(デジタル技術で)生き返った
小繋〜小鳥谷 67年7月17日

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雪の夕方、峠に向かう
正面から発車を何枚か撮り、見送るように後追いを1枚撮る。カメラをバックに仕舞って僕の東北本線は終わった
一戸 67年12月29日

 

 

以上が「Jトレイン」Vol.07(2002年6月刊)に掲載したものです

年代表記は当時のものですので、ご注意、ご了承下さい

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