晩秋から冬へ
同じところに何度も通って撮影する、というのが僕及び学生時代の仲間たちのやり方だった。適当に切り上げて新しい場所に移動してゆけばより多くの機関車を撮影することもできたのだろうがそれはやらず、気に入った写真が撮れるまで何度も何度も愚直に通い詰めたのだ。
この米坂線も東京から比較的近く、ロケーションも良く、キューロクという機関車の魅力もあってよく撮影に行ったところだ。しかし撮影は決まって11月から3月まで、晩秋から冬の間だけだった。
というのもこの線区に入る機関車は米沢区と坂町区の受け持ち。米沢区の機関車は煙突の上に小さな集煙装置を付けていてあまり格好が良くない、狙いは坂町区の機関車たちが中心となるのだが、当時の新潟支社管内の機関車は沿線火災防止のため4月から10月末まで煙突の上に火の粉止めを付けることになっていたのだ。いわゆる「クルクルパー」と呼ばれたいわく付きの不格好な装置だ。
10月の東北は紅葉が美しいのだが「パー」のために諦めて葉が落ちてしまった11月以降が撮影時期だった。寂しい時期になってしまったが撮影に来ている人も少なくなり静かな山の風情が楽しめる、それなりに良い時期だったと思う。雨がいつの間にか雪に替わり、北風と共に冬が早足でやって来て本格的などか雪となる。深い雪の下でじっと息を潜めるように暮す人々の生活を運び続ける鉄道は逞しかった。雪に挑む蒸機の姿は美しかった。
高度経済成長の最中ではあったがまだ日本全国が今ほど均一化される前だったので、雪国の暮らしや風情は都会暮らしの僕にとって興味深いものがあった。見知らぬ土地を一人で旅した若い時の経験は今でも大きな財産になっている。
実は、今では商売として写真撮影をしているのだが、同じところに何度も通い詰めて撮影するスタイルからいまだ抜けられない。30年以上も変われないというのも困ったものだ。