Matsuoka

霧の日の夕方、学校帰りの子供たちの声が小さな駅に響き渡る
羽前松岡 29622 130レ 71年11月20日

Utsu Pass

キューロクの牽引定数は25‰勾配でおおよそ25車、オハ級の客車だと現車で7両ぐらいの牽引が可能。客車が短いと貨物を併結してくることもよくあった
手ノ子〜羽前沼沢 79607 125レ 71年11月10日

Double Heading

通常は重連の仕業は無かったのだが、キューロクが廃止になる直前に、ファンサービスのためか盛んに重連仕業が設定された
手ノ子〜羽前沼沢 29622+49681 7165レ 72年3月9日

Meganebashi

煙、蒸気と共に眼鏡橋に飛び出す。トンネルに挟まれた短い橋梁、沢音が大きいので列車の接近が分からず撮影のタイミングが難しかった
羽前沼沢〜伊佐領 69677 71年11月18日

Yuki no Asa

昨夜来の雪は止み、よく晴れ上がった朝。冷え込みは厳しく張りつめた空気の中を歯切れの良いドラフトが近づいてきた。手ノ子の集落を出ると25‰の連続勾配が峠まで続く
手ノ子〜羽前沼沢 59663 70年1月18日

Yuki no Asa 2

朝日を浴び、沼沢を出て峠に向かう124列車。
手ノ子〜羽前沼沢 49649 124レ 70年1月18日

Joukyaku

128列車 72年1月26日

 晩秋から冬へ

 同じところに何度も通って撮影する、というのが僕及び学生時代の仲間たちのやり方だった。適当に切り上げて新しい場所に移動してゆけばより多くの機関車を撮影することもできたのだろうがそれはやらず、気に入った写真が撮れるまで何度も何度も愚直に通い詰めたのだ。  この米坂線も東京から比較的近く、ロケーションも良く、キューロクという機関車の魅力もあってよく撮影に行ったところだ。しかし撮影は決まって11月から3月まで、晩秋から冬の間だけだった。
 というのもこの線区に入る機関車は米沢区と坂町区の受け持ち。米沢区の機関車は煙突の上に小さな集煙装置を付けていてあまり格好が良くない、狙いは坂町区の機関車たちが中心となるのだが、当時の新潟支社管内の機関車は沿線火災防止のため4月から10月末まで煙突の上に火の粉止めを付けることになっていたのだ。いわゆる「クルクルパー」と呼ばれたいわく付きの不格好な装置だ。
 10月の東北は紅葉が美しいのだが「パー」のために諦めて葉が落ちてしまった11月以降が撮影時期だった。寂しい時期になってしまったが撮影に来ている人も少なくなり静かな山の風情が楽しめる、それなりに良い時期だったと思う。雨がいつの間にか雪に替わり、北風と共に冬が早足でやって来て本格的などか雪となる。深い雪の下でじっと息を潜めるように暮す人々の生活を運び続ける鉄道は逞しかった。雪に挑む蒸機の姿は美しかった。
 高度経済成長の最中ではあったがまだ日本全国が今ほど均一化される前だったので、雪国の暮らしや風情は都会暮らしの僕にとって興味深いものがあった。見知らぬ土地を一人で旅した若い時の経験は今でも大きな財産になっている。
 実は、今では商売として写真撮影をしているのだが、同じところに何度も通い詰めて撮影するスタイルからいまだ抜けられない。30年以上も変われないというのも困ったものだ。

Time Table

169列車の運転時刻表 今泉 72年3月13日

 ー追加文章ー

 機関士席の前に掲げられている「運転時刻表」。普段はなかなか眼に触れないものだが子細に見てみると興味深い。
 今泉と萩生の間に「白川信号場」があって運転時間が4分。 そして、最大の難所・宇津峠、手ノ子〜羽前沼沢間では9.2kmを19分で走っていることが分かる。平均時速で言えば約30km/hになるのだが、峠を越えた下り勾配の速度上昇を考えれば、上り勾配では20km/h半ばではなかっただろうか。
 自転車よりも、わずかに早い速度で急勾配に挑んでいた蒸気機関車の苦闘が忍ばれます。
 そう、これを撮影したのは時計からも分かるように17時52分、今泉発車の直前です。前方の小さな旋回窓から見える出発信号機は青になっていたのでしょうか

Time Table

交換列車待ち 羽前沼沢 29689 72年1月28日

Time Table

123列車 72年1月30日

Time Table

123列車 羽前椿 72年1月30日

Time Table

羽前沼沢駅下り最終列車 131レ 72年1月27日

以上が「Jトレイン」Vol.09(2002年12月刊)に掲載したものです

 

今、見直してみると、ページの最初からなんの説明もなく写真だけが並び、

途中でかろうじて言い訳がましい文章が登場して、それで終わりというような、まぁ手抜きの構成でした。

いくら事情が分かっている鉄道趣味誌向けの原稿だとしても、これはちょっとまずいな、と気づいたのは今回。

また、ここに載せた後半6点の写真は、「Jトレイン」誌上では2ページ見開きで組み写真として扱ったものですが、

残念ながらWeb Siteでは、組み写真をうまくレイアウトして構成再現するのが難しく、

一枚一枚を同等のサイズで扱うことにしました。

また、誌上では縦位置トリミングで使用したカットが3点ありましたが、
このWeb Siteでは縦位置写真の扱いも難しく、6X6で撮影した利点を生かして正方形に近いトリミングにしています。

遅きに失した感は有りますが、多少なりとも修正を加えて、そして以下に文章、写真を追加します。

 

 
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米坂線・宇津峠を越えて

Time Table

正面に見えるのが宇津トンネルの沼沢側出口。この出口の手前側が363mのサミットになっている。
全長1279mもあるのだが、直線なので遙か彼方に手ノ子側の出口がポツリと見えている 
71年11月20日

Time Table

羽前沼沢〜伊佐領間、明沢川沿いに残っている明治期に建設された片洞門  71年11月20日

Time Table

同じく、明治16年に完成のした強固な石組みの網取橋 71年11月20日

Time Table

坂町駅にて進入してくる、直江津発6時25分、秋田着18時55分の821列車。鉄道黄金時代の最後を飾るかのような、長編成、長距離各停列車だ。
羽越本線は,この写真を撮影した半年後72年10月に電化されている 72年3月8日


「米坂(よねさか)線」は山形県南部の米沢市と、日本海沿いにある新潟県北部の荒川町(現在は村上市)坂町を結ぶ90.7kmのローカル線だ。

米沢駅は市街地の東の外れに位置している。明治32年、福島から急峻な板谷峠を越えてようやく鉄道が開通した時、旧上杉藩の歴史文化を持つ人々の意思によって、町の中心から遠く離れた場所に設置されたことが容易に推測される。そして、大正15年に部分開業した米坂線の線路は。これまた町の南側を大きく迂回して敷設されている。県庁所在地、山形の駅が市内の真ん中にある山形城のすぐ近くに造られたことを考えると、この二つの町の人々の気質の違いが分かるようで面白い。

 さて、米沢駅を出た米坂線の列車は、前述のように市街地を避け、これまた遠慮するかのように米沢盆地の西の端に沿いながら北北西に進路を取っている。今泉からは南西に向け、白川の流れに沿いながら山間部に分け入り、米沢から34.7km、手ノ子に到着する。米沢の標高が245m、手ノ子が265mで20mほど登ってはいるが、ほぼ平坦な区間を当時の蒸機牽引列車は早いもので1時間15分ほどかかっていて、その”速さ”が想像できる。

 手ノ子からは、このページの特集でもある「宇津峠越え」が始まるわけだ。
 元来、四方を山に囲まれた山形、米沢から隣り合う他県に行こうとすると必ず山越えをしなければならなかった。江戸時代の徒歩による峠越えから、明治時代に入り、馬車や後には自動車による交通の要求が出てきた時に活躍したのが、初代山形県令(今で言えば「知事」)の三島通庸だ。鹿児島県出身の三島は明治9年に山形に赴任すると道路網の整備を進め、当時では大変な難工事だったと思うのだが、次々に”実用的な”道路を実現させていった。この「宇津峠」もその一つ、新潟を結ぶ大切な街道で明治14年に着工されて19年に完成している。

 ぼくが写真撮影に行った1960年代後半でも、羽前沼沢〜伊佐領(いさりょう)間には、石積みのアーチ橋や、大きな岩をくりぬいた片洞門など明治時代に造られた道路遺構が残っていた。
 その後、時代の要求から道路の改修が進められて、小型自動車ぐらいは通れるようになったのだが、宇津峠は標高491mの鞍部を乗り越える急峻な道だったので、冬季積雪期の通行不能は逃れられなかった。それがようやく解決できたのは、宇津峠の中腹に949mのトンネルを掘って開通させた1967(昭和42)年のことだ。  現在は、さらに1992年に1335mの新しく長いトンネルが開通し、舗装2車線(当たり前か)の立派な国道113号線が完成している。このあたりは日本でも有数の豪雪地帯なのだが、今では積雪期でも除雪完備の快適な国道を車で走ることが出来る。明治の遺構は深い雪の下に眠り、先人たちの苦労に気づくことはないだろう。「積む雪や 明治は遠く なりにけり」だろうか。

 いやいや、大きく脱線してしまった、線路に戻ろう。
 大正15年の米沢〜今泉間の開業に始まり、1933(昭和8)年に宇津トンネルの開通。1936(昭和11)年に山形、新潟県境部分が開通して、米坂線は全線完成している。宇津トンネルの開通は当時としては画期的なことではなかっただろうか。年間の半分にも及ぶ積雪期にも頼もしい交通が確保されたのだから、陸の孤島となっていた沼沢や小国の住民はさぞかし喜んだに違いない。

 さてさて、前振りが長くなってしまった。手ノ子駅を出た列車は集落を抜けると25‰の勾配にかかる。この先峠までの約5kmの間、最急25‰の勾配が連続する。上の本文にも書いたが、手ノ子〜羽前沼沢間、9.2kmの運転時間は19分ぐらい。平均速度は30km/hになるのだが、上り勾配区間では20km/hをちょっと超えたぐらいの速度で、喘ぎながら、力を振り絞って走っていた。
 鉄道は、峠の山腹を貫く1279mの長いトンネルを抜けた所、キロポスト40km付近がサミット、標高363mだ。手ノ子駅から約5.3kmで約100m登って来たわけだ。
 下り勾配になれば、それは快適。自然な地形の造作に沿って線路が敷かれているから、右に左にカーブが多い。羽前沼沢駅を過ぎて伊佐領との間の渓谷沿いに、明治の遺構が今でも残っているようだ。

 高校2年になる春に、初めて撮影に来た当時、伊佐領の駅から沼沢方面に1kmほど歩いてくると、右側に細い道路が分岐していて、市野々、とかいくつかの地名が書かれた道路標識があった。こんな伊佐領のような辺鄙な所からさらに山奥に、多くの人たちが生活していることを知り、いや「僻地」「山国生活」とはすごいものだなぁ、と驚いた記憶がある。そしてさらに驚くべきことに、その道路標識に寄り添うように「基督教独立学園高等学校」の案内板が建っていたことだ。詳しいことは分からないのだが、想像も出来なかった山の中に信仰を持った人たちの高等学校があるようだ。眼の前の山深く延びる細い道の更に奥に「山国」「信仰」「教育」が存在して、何人かの同年代の若者が生活している。都会の何でもない高校に通っている訳の分からない少年の頭の中で、今まで経験のしたことのいないような出来事がグルグルと渦巻いていた。幼かった価値観が大きく揺さぶられる思いがした。

 後で調べてみるとこの学園は、無教会派の基督教を指導していた内村鑑三が「伝道」の必要性を説き、弟子の一人、鈴木弼美(すけよし)が小国町の山間部に伝道に入り、1934年に創設した学園だった。
 実は、ぼくの祖父、祖母は敬虔な無教会派の信徒で、伝道のために明治大正期に、朝鮮や神奈川県足柄に行っている。ぼく自身は全くの無神論者なのだが、信仰の大切さはおぼろげながら認識していた。偶然ではあったが全く思いもよらない出会いがあるものだと思っている。

 さて、また線路に戻ろうか。
 伊佐領を出発して、小さな駅、当時も無人駅だったが、羽前松岡を過ぎると線路も平坦になり小国盆地に入っていく。この地方の中心地小国町に到着だ。標高は140m、随分と下に来てしまった。北に朝日連峰、南の飯豊連峰に挟まれた風光明媚な典型的な山国の町だ。
 「宇津峠越え」はここまで。米坂線は、この先で荒川に沿った景勝地赤芝峡を抜けて越後・新潟県に入り、荒川沿いに走って坂町に到着する。新潟と秋田を結んでいる羽越本線の接続駅だ。
 
 「坂町」と言っても、行政区分では「町」であったことはなく、「字名」の一つにすぎない小さな集落だ。日本海が近く、かつては機関区もあり、鉄道で栄えたところだったが、今は合理化で全て無くなってしまったと思う。
 羽越本線のが村上まで開業が1914年。米坂線がここから東に延びていったのが1931年から。
 賑やかだったのは100年足らずの期間だけだったが、坂町はまた鉄道が開通する以前のように、静かな集落に戻ってしまうのだろうか。

手ノ子周辺

Time Table

宇津峠を越えて手ノ子に下ってきた 126列車 穏やかな晩秋の光景 68年11月30日

Time Table

沼沢側だけでなく羽前椿方面にもすてきな風景があった 49681 124レ 69年12月7日

Time Table

泥まみれでデコボコの国道に比べれば、線路は歩きやすい道になる。積雪期ならなおのこと、除雪された線路の上は唯一の通行路になることもある。
「セキュリティ」とか「安全のために」など、責任逃れの言葉は、厳しく辛い生活を送る身には虚ろに響くだけだ。大きな音を立てて自転車のような速度でやってくる汽車は、決して恐ろしい存在ではなかった
70年11月11日

Time Table

手ノ子の集落を抜けて25‰の勾配にさしかかる。晩秋の柔らかな朝の光線が山村を包んでいる。113号線のバイパス工事が始まってこのアングルが撮影可能になった 71年11月19日

Time Table

前の写真を撮影して、それならもっと高くから俯瞰してみたいたと思った。
ただし、ただ高く登って俯瞰すれば良いわけではなく、引きの写真の大切なポイントは、広い画面の中でも小さな列車が輝いて見えること、ぱっと見て眼に飛び込んでくることだと思っている。
積雪期、一面の雪の中で列車だけが黒々と存在する画をイメージしていたのだが、この蒸機撮影最後のチャンスの年は、70年ぶりの小雪だったのでで望みは叶わなかった。
中途半端な画ではあるのだが、他にはないと思うので載せてみることにした
 72年3月9日

Time Table

前日からの雨、みぞれが、夜半から雪に変わり初雪が積もった朝だった。宇津峠近くの有名な撮影ポイントの上から撮影した。
同業者がお一人いらっしゃる。普段は画面の上では消してしまうのだが、今回は止めておこう。
万が一、この日のこの時間に撮影していた方がいらしたらば、是非お知らせ頂きたい。大きなパネルにして差し上げよう 
9634 123列車 70年11月12日

手ノ子駅

Time Table

湿った雪が足回りにこびりつく 29689 70年1月17日

Time Table

重い雪が降り続く 29689 70年1月17日

Time Table

峠の積雪量が増えてきて、牽引定数の「割減」が行われた。
「割減」とは「一割減」「二割減」というような意味で、牽引定数が割引されて、普段は一両の牽引機でいけるところを、牽引定数オーバーと見なして二両の牽引機を使うことを言っている。
この時も発車そうそう重い積雪を搔き分けなければならなく、さらに積雪のある峠道は難渋することが予想された
59634+29668 125列車  70年1月17日

Time Table

列車の運行だけでなく、降り積む雪のため構内の除雪作業も同時に行われている。条件の悪い中での安全確認に助役さんも最大限の気を遣っている 
70年1月18日

Time Table

我々も大変お世話になった大滝助役さん。
蒸機がなくなるちょうど一年前の71年3月まで勤務されていたのだが、撮影で手ノ子に行かれた多くの方々がお世話になったはずだ。
待合室に蒸機列車や撮影地のの情報を張り出して下さったり,いろいろと便宜をはかって頂いた。
80歳を過ぎた今でも地元の村上市で企業の社長さんをやっていらっしゃるそうで、当時と同じ、お人柄のたまものではないだろうか 
70年1月18日

米坂線・宇津峠 ......完   2014年10月7日

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