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朝の光を浴びて上伊集院を発車する各停列車 235レ 
上伊集院〜広木信号場 1969年3月22日

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シラス台地の勾配区間を走る 
上伊集院〜広木信号場 1969年3月22日

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鹿児島に到着する直前に20‰の勾配区間が、峠越えが待ち構えている。単線の隘路を解決するために上伊集院〜西鹿児島間に広木信号場が設けられていた
D511024+C60 上り臨時急行列車 上伊集院〜広木信号場 1969年3月22日

 鹿児島"本線"とは言え熊本以南は単線区間が連続し、優等列車の本数は多いが穏やかで伸び伸びとした風景が続き、のんびりとしたローカル線のような雰囲気だった。

 ぼくが訪れた時にはもう『はやぶさ』をはじめとする特急寝台はもちろん、急行列車など定期の優等列車はほとんどDD51の牽引になっていた。貨物列車は全てD51でとりわけ魅力はなかったが、各停列車の牽引にC60、C61などの大型蒸機が活躍していたのは嬉しかった。

 同じように60、61が活躍していた東北北部と比べてこちらのカマは改造も少なく原形を保ち、手入れが行き届いていて美しい姿をしていたことも大きな魅力だった。また、なぜか九州では一年中火の粉止めを装着しないことも嬉しいこと、砲金製の区名票といい何かこだわりでもあるかのようで、頑固さと潔さに心地の良い気分を感じたものだ、

 東北北部と比べ、連続する峠越えこそ無かったが海辺を走る風景はこちらならではのもの、不知火海から東シナ海へ、大海原が続き明るい南国の大風景が拡がっていた。

 「海線」と呼ばれていたが峠越えも何カ所かあった。それほど長い区間ではないのだが輸送のネックにはなっていた。

 複雑な地形は美しい風景を生み出してくれるのだが、鉄道にとっては大敵だ。美しい車窓風景を眺めてみたいが到達時間も短くして欲しい、両立は難しく要求が矛盾してしまう。しかし、現代生活では、車窓よりも時間が優先してしまうのだろう、この区間も内陸に掘ったトンネルであっさりと抜ける方法を採用して、来春から到達時間半減を看板にした『新幹線』とやらに取って代わるらしい。(この原稿は2003年夏の時点で書いたものです)

 考えてみれば、八代〜鹿児島間は八代から球磨川をさかのぼり、人吉から矢岳の山越えをして鹿児島に到達した『山線』が鉄道の始まり。その勾配区間克服の新線がこの『海線』だったわけで、時代の要求と条件に応じた選択がなされてきたわけだ。今度は第三の選択だということなのだろうが何か引っかかるものも感じてしまう。

 美しい風景やゆっくりと流れる時間を楽しむことを忘れて、我々の生活は一体どこに向かって走っていくのだろうか。

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東シナ海を見下ろすスケールの大きな撮影ポイント。朝の斜光の中を C61の牽く各停列車が現れたが、10月下旬とはいえ気温が上がってしまい煙は今ひとつなのは残念だ
C61、132レ 西方〜薩摩大川 1968年10月20日

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C6133 140レ 薩摩高城〜草道 1968年10月19日

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C6113 140レ 薩摩高城〜草道 1968年10月20日

光る海。光線のまわり具合を見ながら、足場を変えてアングルを変えて一日中楽しむことが出来た。ただし南九州の10月下旬の気温は高く、蒸機は力行してくるのだが煙が見えないのは辛いところだ

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C6113 140レ 薩摩高城〜草道 1968年10月20日

甑島に夕日が沈み東シナ海に残照が拡がるころ、定時よりだいぶ遅れて列車がやって来た。定時で来ていれば下のような光線で撮れたはずで、この時は悔やんでみたのだが、今見てみるとこれも良かったかなと思っている。
それにしても、架線のない非電化区間のすっきりとした姿はなんと美しいのだろう、当時は嫌っていた「蠅たたき」さえも好ましく見えてくる。
洋上遙かに浮かぶ甑島が「西方浄土」のようにも思えたものだ

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C6113 43レ 隈之城〜木場茶屋 1968年10月21日

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D5194 隈之城〜木場茶屋 1968年10月21日
串木野〜川内間には木場茶屋の峠越えがあった

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C60107 133レ 市来 1968年10月21日
単線区間が多く対向列車待ちで長時間停車が頻繁にあった。三脚を持ち出しての夜間撮影も楽しかった

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C60107 133レ 市来 1968年10月21日

以上が「Jトレイン」Vol.12(2003年9月刊)に掲載したものです

以下に、写真、文章を追加しました

 

 初めて九州の地を踏んだのは1965年春、高校2年から3年になる春休みだった。東京を夜行列車で発ち5泊6日のスケジュールで、京都、呉線、肥薩線、鹿児島本線の田原坂、帰りに大阪吹田機関区に立ち寄り、出来たばかりの新幹線で帰京する、という慌ただしい旅だった。ちなみに、新幹線はこの時乗ってみたがその後長い間乗ることはなかった。そして、宿泊は全て夜行列車の中、若いから出来たことだ。

 67年春、一年浪人の後でようやく大学進学が決まり、12泊13日で九州に旅をしている。「九州均一周遊券」の有効期限は20日間(6200円、4530円の学割は使えなかった)だったが、入学式までには帰ってこなければならず無念の旅程短縮となってしまった。

 行きがけに呉線に寄り、筑豊本線、鹿児島本線、肥薩山線、吉都線、日豊本線、久大本線を回ってきた。夜行列車での宿泊がきついことをようやく認識して、この時は寝袋を持って「駅寝」をすることにした。南国の駅は、入り口ドアを施錠することもなく開けっ放しが多いので、駅寝に関しては比較的楽だった。

 この旅で初めて鹿児島本線の海線区間に行っている。撮影地ガイドも情報も無い時代だったので、高校の地理で使った地図を頼りにして、海岸を走っているであろう阿久根に行ってみた。確かに海辺を走っているのだが、撮りやすくはない。しかも、朝から土砂降りの天候で惨めな記憶が残っている。もう一つの候補地、上田浦付近は良いところだった。天候にもまぁ恵まれて一日楽しんでいる。

 上の「Jトレイン」に掲載した写真は、その後大学2年の時に行ったものだ。堀越庸夫さんに教えてもらった薩摩高城、西方付近は素晴らしいところで、この時から使い始めたブローニーサイズのマミヤC220でじっくりと撮っている。

 以下に追加する写真は67年春の時のもの、技術も何もかも中途半端な時代だが、珍しさと、意気込みだけでもを見て頂ければ幸いだ。

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C60103 125レ 牛ノ浜 1967年3月27日
阿久根駅から海を求めて歩き始めたのだがあまり良い所が見つからず、牛ノ浜駅に着いてしまった。
この旅では買ったばかりの35mm広角を多用している。フィルムはまだネオパンSSの時代だから、F2.8の開放に近いところで撮影しているはずだ。
周辺光量が足りないのもそんな理由で、ご愛敬だ。

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C6028 3201レ「桜島」 牛ノ浜 1967年3月27日
牛ノ浜付近で撮影できる場所を見つけた。不定期急行「桜島」がやって来た。不定期故にDD51は充当されない。
風景写真家の園部澄さんが、「どこか知らないところに行き、美しい風景を探す時は、墓地はどこですか?と訪ねると良い」と書いていたことを思いだした。
確かに、眺めの良いところにお墓は造られている、住人たちも心安らかに暮らしているのだろう。
もしも、今でもこんなところが有ったなら...... 少々狭いだろうが、暮らしてみるのも良いかも知れない

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C60107 牛ノ浜 1967年3月27日
牛ノ浜駅を出発して、カントの効いたカーブを駆け抜ける。
かつて、呉線の大型蒸機が終焉を迎えようとする時、「鉄道ファン」誌上に安保彰夫さん撮影の「花の命は短くて」と題されたC59の写真が掲載された。
それはそれは格好いい写真で、この写真と同じようにカントの効いたカーブを「カクッ」抜ける姿だった。
これは105mmで撮っているのだが、安保さんは縦位置で、多分200mmを使われているのではないだろうか、ぎりぎりのフレームで緊張感、動感のあふれた素晴らしい写真だった

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C6133 阿久根 1967年3月27日
47年前になるのだが、こうしてみると、服装などから時代を感じさせられる。跨線橋も地下道もなく、危うげな踏切板だけの通路で十分通用していた時代でもあった

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C553 上田浦 1967年3月28日
山の上の神社に上る階段の途中で列車を待った。やって来たのはC553の牽く短い列車。臨時列車のようだったが、人吉機関区のC55がなぜここに入ったのか不思議だった

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C60 3201レ「桜島」 上田浦 1967年3月28日
春の繁忙期に大阪〜西鹿児島間を運転されていた「桜島」。一等車こそ一両連結されているが他は二等座席車ばかり。それでも利用客は多く車内は混み合っていたのだ

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C60103 129レ C6027 日奈久 1967年3月28日
桜咲く日奈久駅。129列車を待避させて臨時急行が追い抜いていく

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C60 129レ 肥後二見 1967年3月28日
朝のうちは小雨も降る曇り空だったが、昼前からカラリと晴れ間が拡がった。穏やかな夕暮れの斜光線の中を臨時急行が駆け抜ける

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C6131 134レ 肥後二見 1967年3月28日
どうと言うことのない写真だが、こういう光線は大好きだ。 木造駅舎や電柱一本一本までも愛おしくなる

鹿児島本線・八代〜西鹿児島 ......完   2014年9月14日

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