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前回と同じ地図ですが、再掲します。

 

「呉線・その2」は 広 から東側、三原までの区間です。海沿いに走るところも多く、のんびりとしたローカルムード満点の鉄道のはずなのですが……
前回の「呉線・その1」、海田市~呉~広 間は以前から比較的都市化が進んでいたところでしたので、驚くほどの変化はなかったのですが、今回はビックリです。
そして、この国が抱えている問題点がいくつか浮かび上がってきました。

 

今回の旅で最も印象的だったことは、安芸川尻の町外れで会ったおばあさんとの会話です。

 

50年前の撮影場所を探しながらウロウロと歩き回っていると、「どうしたのかね?」と尋ねられました。
確かに、タブレットに入れた写真を見ながら、畑の中を歩き回り、階段を上ったり下りたり、どう見ても怪しいですよね。 尋ねたと言うよりは“不審尋問”だったのかもしれません。

 

「いや~ぁ、実は50年ほど前にこのあたりで写真を撮ったのですが、同じ場所で撮ろうと思ってまた来てみたのです」と答えると、 な~んだそうだったのか、と納得してくれたようです。 

でも、次の言葉には驚きましたね。

「あんまり変わっとらんじゃろぅ…」 「???………」

 

おばあさんは現在80歳。50年前にここの土地を買い、30年前に家を建てたそうです。 川尻の町中に住んでいたので、このあたりのことは昔からよく見ていた、とのこと。 その人が、この50年間あまり変わっていない、とは……

それではと、タブレットの中の写真を見せると……  「ありゃあ… 随分と変わっとるのぅ…」

 

そうなのかもしれません、一年一年の変化はそう大きくなく毎日見ていると気が付かないのかもしれません。
しかし、改めて50年前の情景を見せられると、初めてその変化の大きさに気が付き、驚く。 人間の意識なんてそんなものかもしれませんね。

 

よく言われる例えで「ゆでガエル現象」というのがあります。
カエルを熱いお湯の中に入れると驚いて飛び出すのですが、
水の中に入れたカエルを徐々に温めると沸騰するまで中にいて死んでしまう、というものです。

おばあさんをカエルに例えているわけではありません。
どうも我々人間全般が、このカエルのようではないか、と思ったのです。

 

御殿場線から始まって、呉線、と見てくるうちに、ぼく自身も「なんだ、この国土の荒廃ぶりは!」とようやく、改めて気が付きました。
昔のように線路際を歩くことも少なくなり、鉄道沿線の変化にそれほど大きな興味を持ってはいなかったのですが、 実際に50年前の写真と比べてみると、その変化の大きさ、取り戻すこともできないほどに大きく変わってしまった姿に愕然としました。 気が付いたらば、周りの水はかなり熱いお湯になっていたのです。

 

これはどうも、色々なことにも当てはまりそうです。
昨年秋の「戦争法制」の国会審議を見ていると、誠実とは真反対の政権の態度、知性の崩壊にはあきれてしまいました。
60年以上前の1960年安保当時の、政治への関心が、庶民感覚が、もし今あったらば…  多分デモなんてものではなく、暴動にでもなっていたのでは… と思いました。

 

徐々に徐々に… 為政者たちにだまされ、牙を抜かれていき…  見かけは“豊か”になったように思わされているのですが、その実、息苦しい、生きることが苦しい世の中になってしまっている。
我々は、典型的な「ゆでカエル」じゃないでしょうか。

 

さてさて、大分脱線してしまいました、線路に戻りましょう。

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1967年3月24日  25レ「安芸」
2016年3月17日

仁方〜安芸川尻

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2016年3月18日

仁方〜安芸川尻

49年前のポイントに立つことはできませんでした。
今回撮影したところよりずっと左手なのですが、このすぐ上の写真で見ていただくように、竹藪が続き全く見通しがなく撮れないのです。

 

背後の離島には長い吊り橋が架かり、さぞや生活は便利になったことでしょう。

しかし、視線を足下に向けてみると… この荒廃ぶりは一体何なのでしょうか。 よく手入れがされていた田んぼは耕作放棄されて湿地になっています。 線路の海側は、多分、堤防で仕切り、埋め立てて、塩水を抜き、耕作地として造成したものだったと思います。

 

保線区員が樹木を伐採して整えていた、線路のある築堤は今や雑木が伸び放題です。 国鉄時代には、たくさんの職員が働き維持していた鉄道資産も、 収入は少ない第一次産業に従事していた人々によって守られていた「瑞穂の国」の国土も、 合理化、自由競争経済の名の下に見事に崩壊しています。

 

上の写真をもう一度よく見て下さい、「美しい国土」だったと思いませんか。

「美しい国」を取り戻す。本当にそうして欲しいと思うのですが、もう手遅れかもしれませんね。

そして何よりもおかしいのは、壊してしまった張本人たちがなんの反省もなくそう言っていることでしょう。

この二枚の写真はかなり雄弁に現在の日本の状況を語ってくれています、恐ろしいことですね。

 

ちなみに、上のカットに写っている列車は寝台専用急行「安芸」、東京を前夜の20:00に出て広島着は12:15です。 「16時間15分しかかからず、寝台でゆっくり寝ていける」というので大変に人気があって、なかなかキップが取れなかった列車です。

 

今や、4時間もかからずに新幹線は走り、飛行機ならば1時間ちょっと…  便利になった反面、大切なものも失ってしまいました。

Oh My God ! ですね。

 

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1968年3月23日  626レ
2016年3月16日

安芸川尻〜安登

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2016年3月16日

安芸川尻〜安登

安芸川尻町の中心部です。

 

瓦屋根の美しい民家が並んでいたのですが… 無秩序な乱開発で見る影もなくなってしまいました。 港にあった小さな造船所も大手に負けてしまい閉鎖されています。
鉄道線路も全く見えなくなってしまいました。

 

前述のおばあさんの話では「人口は、呉市に吸収合併した10年前は1万人いたけど、今では8千人ぐらいだね」。 10年以上前はもっと多かったはずです、人口が減少しているのに、建物の数は増えている。 何とも不思議な現象ですが、それはこういうことなのでしょう。

 

かつては大家族だったから一軒の家に10何人かで住んでいた。しかし、核家族化が始まり一軒ごとの住民数が減ってしまった。 また、大量エネルギー消費の社会になり、一人一人がより広いスペースが必要になった。 というような理由だと思います。

 

ぼく自身も、50年前と比べれば格段に“快適な”生活をしているわけですから、大きなことは言えません。
しかし、狭い国土で住宅問題は深刻な問題だと思っています。この後も同じような問題が出てきます。

 

下のパノラマ写真で見るように林はなくなり、小山は削られて、全て宅地になっています。

 

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1967年3月24日
2016年3月16日

安芸川尻~安登

前述の”おばあさん”と出会ったのがここです。 変わっているでしょ!

 

ここも同じですね。手前の畑も、左後方の山あった段々畑も耕作放棄されて荒れ果てています。
ここにも住宅は増えて、海岸には大きな造船所ができていました。

 

おばあさんの話では、造船所は吉浦(広島と呉の中間にある町)から来た「神田造船」だそうで、調べてみたらば中堅の造船会社です。

 

「地場産業ができてよかったですね」と言ったのですが「働いている人たちは外国人が多いんですよ」との話でした。 住民登録もしていないのだろうから、市民(今ここは呉市に吸収合併されています)としてのカウントはなさそうです。 町には固定資産税などは入るのでしょうが、住民としての受け入れはなさそうです。いびつな産業構造、住民構造ですね。

 

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1967年3月24日
2016年3月17日

安芸川尻~安登

前のシーンに見る、左奥の段々畑から撮影していましたが、今では藪となり入れるところはごく限られてしまいました。
このカットの正確なポジションは、もっと右手ですが行くことはできません。類似ポジションになってしまいました。 何しろ、かつての広い段々畑は好きなように移動できたので、色々なポジションで撮影していました。
山の上からの俯瞰など、全景を見渡せるカットはたくさんあるのですが、今となっては比べようがありません、残念です。

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1967年3月24日  26レ寝台急行「安芸」

安芸川尻~安登

この場所には立てませんでした。

かくなるうえは… 今流行のドローンでも導入するほかないかもしれませんね。

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1968年3月23日  25レ「安芸」
2016年3月15日

安浦~安登

安浦の町を見下ろす山の上からです。
上のカットの列車も東京から来た「安芸」です。
この程度の変化では、なんの驚きもないかもしれませんね、“想定内”でしょうな。
しかし……

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2016年3月15日

安浦~安登

ぐっと引いてみると、ここも段々畑が耕作放棄され、そこに太陽光パネルが並んでいます。
機械化もままならない段々畑はうち捨てられる。手間をかけることは嫌われて、置いておくだけで収入になる太陽光パネルを導入する。
都市近郊の農地が転用されてマンションが建つ。「過酷な労働がなくとも収入になる」という構造変化と全く同じことが全国レベルで起きているのでしょう。

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1968年3月23日
2016年3月15日

安浦~安登

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1968年3月23日
2016年3月15日

安浦~安登

この二つのシーンはほぼ同じ場所で撮影しています。
細かく見てみると、労働は嫌われ不動産から収益を生み出す錬金術 “乱開発” が見て取れます。

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1967年3月25日
2016年3月15日

安浦〜風早

安浦駅を過ぎて海岸に出てきました。このあたりは牡蠣養殖の適地です。
養殖筏が見えますが、いまでは加工工場も建てられているようです。対岸の島にも建物ができてそれなりの産業が興っているのでしょう。
経済発展としては順当な展開なのでしょうが、景観の保護を考えると辛いところです。
オリジナル撮影ポジションは… もう少し上からでしたが、ここも藪になっていて登れませんでした。

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1967年3月25日
2016年3月15日

安浦〜風早

前のシーンを右に振っていくとこうなるのですが、段々畑がなくなっていますね。

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1967年3月25日 626レ
2016年3月15日

安浦〜風早

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1967年3月25日
2016年3月15日

安浦〜風早

2シーンともほぼ同じ場所です。いかに手入れがされていないかお分かりでしょう。
確かに、列車の運行には差し障りはなく、最低限の安全、矜持は保たれていると思っているのでしょうが、それはやっぱり違うでしょう。
万が一にも「美しい日本」なんてことを言うならば、このあたりから考えなければダメだよね。

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1968年3月30日  25レ「安芸」
2016年3月15日

安浦〜風早

有名な撮影地ではないのですが、のどかなよい風景でしょう。ぼくが気に入って何度も通ったところです。

ここに立ち海を眺めていると、子供のころ好きだった童謡「みかんの花咲く丘」のメロディーがいつも思い浮かんでいました。

ぼくが、初めて覚えて歌えるようになった歌がこの曲でした。3,4歳のころ、ラジオから流れる曲を母と一緒に聴いて歌っていた想い出も…

 

今同じ場所に立つことができて感無量、涙こそ出ませんでしたが、ジーンときましたね。

 

ぱっと見たところ48年間の変化としてはあまり大きくはないかもしれません。
海岸に埋め立てが行われ、太陽光パネルが敷き詰められています。同じく休耕田にも太陽光パネルが見えます。
手前の家が二階建てになったのでしょうか、多少建物が増えている、その程度と思うのですが…

 

実は、ぼくが今立っているこの場所はかつては蜜柑の段々畑だったのですが、その面積が大きく減っていました。 かろうじて残った場所から撮影ができましたが、多くの場所が藪になっています。
しかもここは、かつて見たこともなかった墓地になっていました。その理由は後ほど…

 

この後にもっと顕著な例が出てきますが、オレンジ輸入の自由化は、瀬戸内の蜜柑農家に大きな打撃を与えたと思いました。
それも後ほど、お伝えします。

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1967年3月25日  25レ「安芸」
2016年3月15日

安浦〜風早

この場所を見つけたときには、あっよい場所だな、と思いました。


段々畑の上に登り、見下ろすと海が拡がっています。この列車も東京からやって来た寝台急行「安芸」です。

ところが今や。海は埋め立てられて「広島県立豊田高校」が建っています。まあそれは仕方がありませんが、段々畑は藪になり登ることはできません.。
周辺も無秩序な開発で、かつての美しさはみじんもなくなってしまいました。

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1968年10月16日 26レ「安芸」
2016年3月18日

忠海~安芸幸崎

忠海と安芸幸崎の中間地点、列車が海沿いに走るところです。 かつては蜜柑栽培の段々畑の上に登って俯瞰撮影しています。

 

上のカットは東京行きの「安芸」ですが、残念ながら絶気となり煙が出ていません。

当時は、見渡す山一面に蜜柑栽培の段々畑が拡がっていたのですが、今ではごく一部になってしまいました。 ほとんどが藪になり入っていくこともできず、見通しもありません。

 

下の写真は上とは大分違う場所からの撮影です。

小屋浦、安浦、安芸川尻、風早… 段々畑がなくなっていく姿を見たのですが、興味深いことにある共通する発見をしました。

 

「お墓」が、今かろうじて残っている段々畑の中に造られているのです。50年前には見たことがなかったのですが、今あるのですね。
先祖伝来の耕作地を放棄する、せめてもの償いとしてご先祖の墓を移設したのでしょうか。確証はありませんがそうとしか考えられません。

 

墓地は基本的に眺めのよいところに造られます。
写真家・園部 澄さんが昔、知らない土地に行って景色のよい場所を探すのに「墓地はどこですか?」と聞くとよいと言っていたのを覚えています。 なるほどですね。

 

段々畑の上はどこも眺めのよいところです、しかも多くの場合に、住んでいた自宅が見下ろせます。墓地としては絶好の場所じゃありませんか。

 

この瀬戸内沿岸の、衰退している蜜柑栽培の段々畑に、比較的新しい墓石が並ぶお墓があちこちにありました。 なんだかとても切なく、悲しい気分になりました。
今はよいのだけれども、この先段々畑の耕作を断念せざるを得なくなったときに、藪の中にお墓が埋もれていくのではないか。 いや、現実に埋もれてしまったお墓があるのではないか、という懸念です。

 

耕作放棄などできることならやりたくはないでしょう。しかしそうせざるを得ない理由を前に、信仰心の深い人たちは苦しんだのでしょう。
ご先祖様に申し訳がないという気持ちが真新しい墓石に現れているように思いました。
新しい墓がいくつも、藪になりかけているところに並んでいる、そういう選択しかできないことに、なんだかとても切なくなってしまいました。

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1968年3月22日
2016年3月14日

安芸幸崎〜忠海

ここも蜜柑畑と狭い水田だったところです。

安芸幸崎の駅の西 約600mぐらいのところから東側を見ています。 安芸幸崎駅を発車した列車は、煙を上げて加速していきます。

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1968年3月22日 26レ「安芸」
2016年3月14日

安芸幸崎〜忠海

前のシーンとほぼ同じ場所ですが、反対の西側、忠海側を見たところです。

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1965年4月2日
2016年3月14日

安芸幸崎〜須波

「きれいな海沿いを走る列車」が撮りたくて、初めて安芸幸崎に来た時です。
撮影地ガイドなどなかったので、線路沿いに歩いて場所を探しました。目的の「安芸」が来る時間も迫り、まぁまぁよい場所を見つけました。
狭い土地を無駄なく使い、よく手入れがされた畑でした。

今や… 言葉を失います。

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1968年3月24日
2016年3月14日

安芸幸崎〜須波

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1968年3月24日
2016年3月14日

安芸幸崎〜須波

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1968年3月24日
2016年3月14日

安芸幸崎〜須波

この二つのシーンは同じ場所ですが、それぞれ反対側を見ています。
かつては、民家は一軒もなく、あたりは蜜柑などの果樹園でした。

今や、三原市の10km圏内に入っていますから、ベッドタウンとして開発が行われて全く違う様相を見せています。 農地から住宅地への転換、典型的な日本国土の “発展” の形ですね。

 

1980年代の日米貿易摩擦の象徴でもあった「オレンジの輸入自由化」は1991年に実施されて、日本の柑橘類農家に大きな打撃を与えました。 この瀬戸内沿岸もその影響を強く受けた場所の一つだったのでしょう。

 

前回、今回と見ていただいたように、柑橘類栽培を中心とした段々畑は姿を消してしまいました。その他の農業耕作も大幅に減少しています。 特に段々畑は機械化もできず、農業従事者の高齢化とも相まって消滅する他なかったのでしょう。

労働集約による、 日本の美徳でもあった “よく手入れされた” 農地、そして国土、は消滅する運命だったのですね。

 

「農地転作事業」による多額の補助金が払われ、国家によって土地が高額で購入され、払い下げに群がった業者によって宅地開発が行われた…… なんだかそんな筋書きが透けて見えます。

 

今、スーパーマーケットに行くと、「オレンジ」や「グレープフルーツ」など、ぼくが子供だったころには高価で口にすることもできなかった果物が安売りされています。
その代わりに、「甘夏」「ハッサク」の姿はもうあまり見ることができません。 
アメリカ産の果物がデフォルトになってしまい、それになんの疑問も持たなくなった…… 気が付くとそうなっていたのですね。

 

ここ呉線は、柑橘類、段々畑など特殊な要素があったのですが、随分と大きな変化を遂げていました。

 

「皇国の…」 じゃなかった

「我が国の荒廃、この呉線に見る」 ですね。
Z旗は揚げませんけどね……

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